キムチを売る女 (2005)
[165]見捨てられた朝鮮族の女スニと、見捨てられたカメラ……?
これも傑作。どころか稀にみる大傑作。
チャン・リュル監督、
友人の映画監督に「映画なんて誰でも撮れるよ」と言ったら、
「じゃあ撮ってみろよ」と言われて映画界に入ったひとらしい。
で、この大傑作は2作目なんだって(笑)。
おまけに監督が素人なら
主人公の朝鮮族スニをやっているリュ・ヨニも素人で、
どこかの大学の教授らしい。
いやあ、凄い。カッコいい。
「素人万歳~!」って巣鴨の駅前駆け出したくなっちゃったよ(笑)。
写真は、映像は誰だって撮ることができる。
それがカメラの最大の魅力。そしてチカラ。
知識も技術も要らない。自分が撮ろうなんて思わない。
ただカメラを信じて、スイッチを押して、
後はただカメラ自身に撮ってもらえばいいのだ(笑)。
そう。誰もが写真(絵)を撮ることができる。それが映画。(^^♪
演技なんて、芝居なんて誰だってできる。
そのことをみごとに証明してみせているだけでも
じつにすばらしき快挙かなだよね。
演技の基本は物語を生きること。
人間は誰だって物語=現実を生きてるわけだから、
とうぜん誰だって演技できるってことになる訳だよね。
そして、誰だって映画を撮れる、誰だって演技できる。
ことさら特殊な才能も異能も要らない。
それが映画や芝居のものすごくいいとこな訳でさ。
実際、この映画、ものすごく素人ぽい。
で、そこがものすごくいいのだ。
私の好きな北野武もいつも素人として撮ろうとする監督だが。
素人っぽさはカメラの構図によく表れていて、
チャン・リュル監督はカメラをいつもただ真正面に向けて据えているだけ。
どこまでも、あくまでも「固定」。
おまけに人物たちもカメラのほうをこっちを向いてるだけ(笑)。
ちょっと森田芳光の「家族ゲーム」を思わせるが、
観ると「家族ゲーム」なんて軽~く吹っ飛んじゃうよ、悪いけど。(^^♪
いやあ、ほんと、これだと素人でも撮れるよねえ。
カメラをただ人物に向けて、正面に向けて据えておくだけでいいだもん。
おい、みんな、これで一発映画を撮ろうぜ(笑)。
おまけにこういう撮り方だと自分で出演までできちゃうよ。
で、すごく面白いところは見てごらん。
画面があるでしょう、その画面を人物たちが出入りするだけなのだあ~(笑)。
たとえばスニが自転車を押しながら
画面の右側から入ってきて、歩いて、そして画面の左側へ出て行く、
画面から消える…、みたいに。
この映画の構図の基本はそれ。
それを徹底してやっているの。人物を追っかけたりしない!
ただしラストシーンだけ、
カメラが突然動きだしてスニの背中をずっと追っかけていくから、
そうなるとカメラの効果抜群だよねえ。
しかし、なぜカメラをただ据えっぱなしにするのか。
もちろん深~い訳がある訳だ。
朝鮮族というのは中国の北東部に住んでいるひとたちのこと。
一言でいえば、中国人には韓国人とみなされ、
韓国人には中国人ってみなされているひとたち。
どちらでもない、双方の谷間でしか生きられないひとたち。
双方から見捨てられているひとたち。
この映画のカメラの据え方自体が
じつはそのことを表現してみせているんだよね。
だって、ひとが通り過ぎてもその人物を追わないってことは、
カメラを操作するひとがいないってこと。
このカメラ自体がすでに誰からも見捨てられた存在だってこと。
スニはカメラから、他人の視線から見捨てられてる。
が、実はそのカメラも一切の人間から見捨てられている…。
だからこの映画の全編に
一切が見捨てられているとでもいった荒涼感が漂いつづけるんだよね。
その表現がもうみごとって拍手するしかない。
ほかにもすごくいい映像がたくさんある。
中国の女性たちが音楽にのって中国舞踊を踊りながら、
画面の右から現れて画面の左へ去っていくところ。
たいして朝鮮族のスニが、
警察署の狭い裏路地で女職員に、音楽もなく、
ひじょうに難しい(?)韓国舞踊を教えているところ。
スニのひとり息子が
買ってもらった鯉のぼり(凧)を青いスプレーで染めるところ。
その息子が事故死(?)したあと、
スニがその鯉のぼり(凧)を空に上げるところ。
挙げはじめたらキリがないので止めるけど、
見終わったあと、なんだかちょっと呆然として、
だいぶしばらくしてからひじように静かな涙が数的零れてくるような、
そんな、ほんとに素晴らしい映画。
ひじょうに批評性に富んでいて結構クスクス笑えちゃうしさ。
あ、ついだから物語をちょっとだけ紹介しとこかな。♬
朝鮮族のスンヒ親子は、中国のある田舎町の駅舎のそばで暮らしている。
夫は貧しさのあまり金目当てに人を殺し、いまや刑務所暮らし。
スンヒは故郷を捨て一人息子チャンホと引っ越してきたのだ。
隣では四人の若い中国娘たちが共同生活を送っている。
彼女たちはチャンホを可愛がりいつも一緒に遊んであげている。
彼女たちの仕事は夜の町で拾うこと。つまりは売春婦。
彼女たちも貧しいのだ。
スンヒは朝鮮キムチを売ってなんとか生計を立てているが、
女ひとりの商いと知り近づいてくる男が絶えない。
近くの自動車教習所の食堂主任もそのひとり。
キムチを定期的に購入するという話を持ちかけられ、
からだを要求されるがこれは撃退。
この男はトラック工場に勤務しているキムという男。
結婚していることは知っていたが、同じ朝鮮族ということもあってか、
いつしか自宅で愛を交わす仲になる。
チャンホは二人の仲に気づき、母と男に石を投げた。
ある日、スンヒの自転車は押収される。
路上販売の許可を得ていなかったからだ。
そのため路上販売許可を得られるようにしてくれた警官がいた。
いつも私服でスンヒのキムチを買いに来るワンという警官だったが、
実は彼もスンヒに近づきたがっていたひとりだった。
キムの女房がとうとうスンヒの自宅に現れ、夫を連れ帰った。
キムが彼女は売春婦なので買っただけだと言い訳をしたので、
女房はスンヒを警察に密告する。
警官ワンは彼女を取り調べ、隙を見てスンヒをものにする。
その警官ワンには実は婚約者がいた。
彼女とあまりうまく行っていなかったため彼はスンヒに近づいたようだが、
式を挙げることになり、婚約者がスンヒのキムチを買いに来た。
祝宴ではキムチを出したいので届けてくれないかと。
家へ帰ったスンヒは言葉を失った。
一人息子のチャンホが事故死していたからだ。
彼女はひとり、チャンホを埋葬した。
そうしてチャンホの代わりに、
チャンが残したお魚を空に放ち(海へ返し)、
警官ワンと婚約の祝宴用のキムチ作りにかかった。

そして約束通り、式場へ届けた。

スンヒが帰ったあと結婚式場は大混乱に陥った。
来客たちが「殺鼠剤」が大量に仕込まれたキムチを食べてしまったからだ。

その頃、スンヒはひとり自宅を出、

線路を超え、

駅の改札口を抜け、

中国の巨大な街の中へと消えた。
胸の中にカタストロフィー願望を抱えたまま…。
映画ファンを自認したいならこの映画は絶対観なくちゃだめでしょう。(^^♪
てっせんさん、お薦めありがとうございました。
-------------------------------------------------------
●てっせんさん
この監督、相当イロニーの精神をもった監督だとおもいます。
自身も朝鮮族出身であることから来るんでしょうか?
「初恋のきた道」がひとつの極北だとすれば、
この映画ちょうど真反対にある極北で、
ほとんどの映画はこの両極の間にあるような気がしますよね。
いずれも人間のこころが作り出すもの……。
こころ次第でこころが満ちもすれば、とことん空虚にもなる……。
しかしこの二作品を観ていると、日本人が、日本の映画人が
もはや物語を創る力を失ったことをまざまざと思い知らされて、
ショックです……。
●てっせんさん
新作のポスター?拝見しました。
写真がいいですね。それだけでもう楽しみです……(笑)。
●Kさん
物語のモチーフはあの「ねこいらず」ですよね。
あのカタストロフィー願望が育まれてしまった事情が
ほんとによく描かれているとおもいます。
「家族の誕生」手元にあるんですが、稽古に入ったので
いつ観れるのか……(笑)。
●てっせんさん
この監督の作品で手に入るものはほかになにがあるんでしょう?
教えていただけるとうれしいんですが……。
●てっせんさん
記事を読みまして、その後すぐに「チャン・リュル監督」の項目を
作りました。はなはだ簡単で私はとても寂しいのですが……(笑) 。
「風と砂の女」、一般公開してほしいですよね……。
「ピーターパンの公式」は探してぜひ観ます……。
●チェブさん
いえいえ、私の大好きな映画ですし、チェブさんの
映画にたいするスタンスもなんとなくわかってきましたので……(笑)。
少数派のフアンというより、所属する場所を失っていることからくる
不安じゃないかと思ったのですが……。
ちょっとキムギドク風の映画ですよね。
すごく個人的なことを描く描き方が……。
私はどうもそういう作品にひかれる傾向が多みたいです……(笑)。
ありがとうございました。
■109分 韓国/中国 ドラマ
監督: チャン・リュル
脚本: チャン・リュル
撮影: ユ・ヨンホン
出演
リュ・ヨンヒ
キム・パク
ジュ・グァンヒョン
ワン・トンフィ
中国東北部の辺境で暮らす朝鮮族スニ(リュ・ヨニ)は、32歳のシングルマザー。同じ長屋には若い娼婦たちが暮らしていて、夜になると賑やかに仕事に出てゆく毎日。街は活気がなく、幾つか工場があるだけ。仕事の口は限られています。スニは生活のためキムチを作って売っていますが、当局の露天商摘発が厳しく、警察から邪魔をされてばかり。
ある日、工場勤めの男キムは、スニからキムチを買ったことがきっかけで、彼女が同族であることを知り、惹かれてゆく様になりますが、いつもつきまとうキムの妻は、スニと夫が接近することを許そうとしません。スニは純朴でまじめなキムを、つっけんどんながらも、だんだんと受け入れるようになりますが、二人が男女の関係になったとき、スニはキムの妻の密告により、売春容疑で警察に逮捕されてしまいます。
警察官に厳しく尋問されるスニ。「民族は! おまえは何民族だ!」 しかし、スニがそれに答えることはありません。釈放されたスニを待っていたのは、独り遊びをしていた息子の死。運命の不条理な仕打ちに、スニの心の中で湧き上がる突然の殺意。彼女は結婚式場への納品を依頼されていたキムチの中に大量の猫いらずを混ぜ込みます。華やかな結婚会場は一転して、阿鼻叫喚の場へと変わり、次々と人々が救急車で運び出されるのでした。全ての希望を失ったスニは、放心して街をさ迷います。しかし、スニがいくら嘆き悲しもうとも、芒種の乾いた風景が、無常に広がり続けるだけです。
これも傑作。どころか稀にみる大傑作。
チャン・リュル監督、
友人の映画監督に「映画なんて誰でも撮れるよ」と言ったら、
「じゃあ撮ってみろよ」と言われて映画界に入ったひとらしい。
で、この大傑作は2作目なんだって(笑)。
おまけに監督が素人なら
主人公の朝鮮族スニをやっているリュ・ヨニも素人で、
どこかの大学の教授らしい。
いやあ、凄い。カッコいい。
「素人万歳~!」って巣鴨の駅前駆け出したくなっちゃったよ(笑)。
写真は、映像は誰だって撮ることができる。
それがカメラの最大の魅力。そしてチカラ。
知識も技術も要らない。自分が撮ろうなんて思わない。
ただカメラを信じて、スイッチを押して、
後はただカメラ自身に撮ってもらえばいいのだ(笑)。
そう。誰もが写真(絵)を撮ることができる。それが映画。(^^♪
演技なんて、芝居なんて誰だってできる。
そのことをみごとに証明してみせているだけでも
じつにすばらしき快挙かなだよね。
演技の基本は物語を生きること。
人間は誰だって物語=現実を生きてるわけだから、
とうぜん誰だって演技できるってことになる訳だよね。
そして、誰だって映画を撮れる、誰だって演技できる。
ことさら特殊な才能も異能も要らない。
それが映画や芝居のものすごくいいとこな訳でさ。
実際、この映画、ものすごく素人ぽい。
で、そこがものすごくいいのだ。
私の好きな北野武もいつも素人として撮ろうとする監督だが。
素人っぽさはカメラの構図によく表れていて、
チャン・リュル監督はカメラをいつもただ真正面に向けて据えているだけ。
どこまでも、あくまでも「固定」。
おまけに人物たちもカメラのほうをこっちを向いてるだけ(笑)。
ちょっと森田芳光の「家族ゲーム」を思わせるが、
観ると「家族ゲーム」なんて軽~く吹っ飛んじゃうよ、悪いけど。(^^♪
いやあ、ほんと、これだと素人でも撮れるよねえ。
カメラをただ人物に向けて、正面に向けて据えておくだけでいいだもん。
おい、みんな、これで一発映画を撮ろうぜ(笑)。
おまけにこういう撮り方だと自分で出演までできちゃうよ。
で、すごく面白いところは見てごらん。
画面があるでしょう、その画面を人物たちが出入りするだけなのだあ~(笑)。
たとえばスニが自転車を押しながら
画面の右側から入ってきて、歩いて、そして画面の左側へ出て行く、
画面から消える…、みたいに。
この映画の構図の基本はそれ。
それを徹底してやっているの。人物を追っかけたりしない!
ただしラストシーンだけ、
カメラが突然動きだしてスニの背中をずっと追っかけていくから、
そうなるとカメラの効果抜群だよねえ。
しかし、なぜカメラをただ据えっぱなしにするのか。
もちろん深~い訳がある訳だ。
朝鮮族というのは中国の北東部に住んでいるひとたちのこと。
一言でいえば、中国人には韓国人とみなされ、
韓国人には中国人ってみなされているひとたち。
どちらでもない、双方の谷間でしか生きられないひとたち。
双方から見捨てられているひとたち。
この映画のカメラの据え方自体が
じつはそのことを表現してみせているんだよね。
だって、ひとが通り過ぎてもその人物を追わないってことは、
カメラを操作するひとがいないってこと。
このカメラ自体がすでに誰からも見捨てられた存在だってこと。
スニはカメラから、他人の視線から見捨てられてる。
が、実はそのカメラも一切の人間から見捨てられている…。
だからこの映画の全編に
一切が見捨てられているとでもいった荒涼感が漂いつづけるんだよね。
その表現がもうみごとって拍手するしかない。
ほかにもすごくいい映像がたくさんある。
中国の女性たちが音楽にのって中国舞踊を踊りながら、
画面の右から現れて画面の左へ去っていくところ。
たいして朝鮮族のスニが、
警察署の狭い裏路地で女職員に、音楽もなく、
ひじょうに難しい(?)韓国舞踊を教えているところ。
スニのひとり息子が
買ってもらった鯉のぼり(凧)を青いスプレーで染めるところ。
その息子が事故死(?)したあと、
スニがその鯉のぼり(凧)を空に上げるところ。
挙げはじめたらキリがないので止めるけど、
見終わったあと、なんだかちょっと呆然として、
だいぶしばらくしてからひじように静かな涙が数的零れてくるような、
そんな、ほんとに素晴らしい映画。
ひじょうに批評性に富んでいて結構クスクス笑えちゃうしさ。
あ、ついだから物語をちょっとだけ紹介しとこかな。♬
朝鮮族のスンヒ親子は、中国のある田舎町の駅舎のそばで暮らしている。
夫は貧しさのあまり金目当てに人を殺し、いまや刑務所暮らし。
スンヒは故郷を捨て一人息子チャンホと引っ越してきたのだ。
隣では四人の若い中国娘たちが共同生活を送っている。
彼女たちはチャンホを可愛がりいつも一緒に遊んであげている。
彼女たちの仕事は夜の町で拾うこと。つまりは売春婦。
彼女たちも貧しいのだ。
スンヒは朝鮮キムチを売ってなんとか生計を立てているが、
女ひとりの商いと知り近づいてくる男が絶えない。
近くの自動車教習所の食堂主任もそのひとり。
キムチを定期的に購入するという話を持ちかけられ、
からだを要求されるがこれは撃退。
この男はトラック工場に勤務しているキムという男。
結婚していることは知っていたが、同じ朝鮮族ということもあってか、
いつしか自宅で愛を交わす仲になる。
チャンホは二人の仲に気づき、母と男に石を投げた。
ある日、スンヒの自転車は押収される。
路上販売の許可を得ていなかったからだ。
そのため路上販売許可を得られるようにしてくれた警官がいた。
いつも私服でスンヒのキムチを買いに来るワンという警官だったが、
実は彼もスンヒに近づきたがっていたひとりだった。
キムの女房がとうとうスンヒの自宅に現れ、夫を連れ帰った。
キムが彼女は売春婦なので買っただけだと言い訳をしたので、
女房はスンヒを警察に密告する。
警官ワンは彼女を取り調べ、隙を見てスンヒをものにする。
その警官ワンには実は婚約者がいた。
彼女とあまりうまく行っていなかったため彼はスンヒに近づいたようだが、
式を挙げることになり、婚約者がスンヒのキムチを買いに来た。
祝宴ではキムチを出したいので届けてくれないかと。
家へ帰ったスンヒは言葉を失った。
一人息子のチャンホが事故死していたからだ。
彼女はひとり、チャンホを埋葬した。
そうしてチャンホの代わりに、
チャンが残したお魚を空に放ち(海へ返し)、
警官ワンと婚約の祝宴用のキムチ作りにかかった。

そして約束通り、式場へ届けた。

スンヒが帰ったあと結婚式場は大混乱に陥った。
来客たちが「殺鼠剤」が大量に仕込まれたキムチを食べてしまったからだ。

その頃、スンヒはひとり自宅を出、

線路を超え、

駅の改札口を抜け、

中国の巨大な街の中へと消えた。
胸の中にカタストロフィー願望を抱えたまま…。
映画ファンを自認したいならこの映画は絶対観なくちゃだめでしょう。(^^♪
てっせんさん、お薦めありがとうございました。
-------------------------------------------------------
●てっせんさん
この監督、相当イロニーの精神をもった監督だとおもいます。
自身も朝鮮族出身であることから来るんでしょうか?
「初恋のきた道」がひとつの極北だとすれば、
この映画ちょうど真反対にある極北で、
ほとんどの映画はこの両極の間にあるような気がしますよね。
いずれも人間のこころが作り出すもの……。
こころ次第でこころが満ちもすれば、とことん空虚にもなる……。
しかしこの二作品を観ていると、日本人が、日本の映画人が
もはや物語を創る力を失ったことをまざまざと思い知らされて、
ショックです……。
●てっせんさん
新作のポスター?拝見しました。
写真がいいですね。それだけでもう楽しみです……(笑)。
●Kさん
物語のモチーフはあの「ねこいらず」ですよね。
あのカタストロフィー願望が育まれてしまった事情が
ほんとによく描かれているとおもいます。
「家族の誕生」手元にあるんですが、稽古に入ったので
いつ観れるのか……(笑)。
●てっせんさん
この監督の作品で手に入るものはほかになにがあるんでしょう?
教えていただけるとうれしいんですが……。
●てっせんさん
記事を読みまして、その後すぐに「チャン・リュル監督」の項目を
作りました。はなはだ簡単で私はとても寂しいのですが……(笑) 。
「風と砂の女」、一般公開してほしいですよね……。
「ピーターパンの公式」は探してぜひ観ます……。
●チェブさん
いえいえ、私の大好きな映画ですし、チェブさんの
映画にたいするスタンスもなんとなくわかってきましたので……(笑)。
少数派のフアンというより、所属する場所を失っていることからくる
不安じゃないかと思ったのですが……。
ちょっとキムギドク風の映画ですよね。
すごく個人的なことを描く描き方が……。
私はどうもそういう作品にひかれる傾向が多みたいです……(笑)。
ありがとうございました。
■109分 韓国/中国 ドラマ
監督: チャン・リュル
脚本: チャン・リュル
撮影: ユ・ヨンホン
出演
リュ・ヨンヒ
キム・パク
ジュ・グァンヒョン
ワン・トンフィ
中国東北部の辺境で暮らす朝鮮族スニ(リュ・ヨニ)は、32歳のシングルマザー。同じ長屋には若い娼婦たちが暮らしていて、夜になると賑やかに仕事に出てゆく毎日。街は活気がなく、幾つか工場があるだけ。仕事の口は限られています。スニは生活のためキムチを作って売っていますが、当局の露天商摘発が厳しく、警察から邪魔をされてばかり。
ある日、工場勤めの男キムは、スニからキムチを買ったことがきっかけで、彼女が同族であることを知り、惹かれてゆく様になりますが、いつもつきまとうキムの妻は、スニと夫が接近することを許そうとしません。スニは純朴でまじめなキムを、つっけんどんながらも、だんだんと受け入れるようになりますが、二人が男女の関係になったとき、スニはキムの妻の密告により、売春容疑で警察に逮捕されてしまいます。
警察官に厳しく尋問されるスニ。「民族は! おまえは何民族だ!」 しかし、スニがそれに答えることはありません。釈放されたスニを待っていたのは、独り遊びをしていた息子の死。運命の不条理な仕打ちに、スニの心の中で湧き上がる突然の殺意。彼女は結婚式場への納品を依頼されていたキムチの中に大量の猫いらずを混ぜ込みます。華やかな結婚会場は一転して、阿鼻叫喚の場へと変わり、次々と人々が救急車で運び出されるのでした。全ての希望を失ったスニは、放心して街をさ迷います。しかし、スニがいくら嘆き悲しもうとも、芒種の乾いた風景が、無常に広がり続けるだけです。
この記事へのコメント
山崎さんもご指摘の、漢族の、だれもが太り気味の中年女たちが太鼓の音に合わせて集団で踊りながら画面を横切るところや、スニと女職員が無音のなかで朝鮮舞踊を舞いながら画面に向かってやってくるところ(ああ、これも、わざと対比させてる?)などもそうですが・・・特に、広くがらーんとした駅舎の中で、駅員が無言で一人一人の客の額になにやら押し当てるシーンでは、ん???っていう感じで、大げさに言えば、一瞬、こちら側の世界とは異なる別の世界にひょいと入り込まされたような気がしました・・・後になって、なるほど、そういうことだったのかな、とそのワケが推測がつくんですが。
とにかくこの映画、建物の内部も通りも町も、あるいは人々の内側も?、なにもかも、どこへ行っても、がらーんと、とてつもなく空虚なのがとても印象的でした。
チャン・リュルの新作について、グッドタイミングでこんな記事が載っていました。
http://www.chosunonline.com/article/20081010000000
偶然とは言え、あまりのタイミングのよさに、恐ろしくなってしまいますねえ(笑)。こちらのブログにお邪魔するようになって、このような偶然がしばしば起きています。
主演のオム・テウンは、「公共の敵2」で悪玉のボディーガードを演じた俳優です。ドラマ「復活」ではカン・シニルの義理の息子役で主演しており、私はこのドラマで彼がお気に入りの一人になりました(笑)
正直言うと、中盤少々退屈だったし、私の好きな韓国映画の三大要素「殴り合い」「怒鳴りあい」「男の涙」のどれも入っていないんだけれど、何故か・・・。
てっせんさんの言われる、あの無限に続くような閉塞感に風穴を開ける「ねこいらず」に、何かやられちゃったんですよねぇ。
時々、彼の大国で報じられる毒物事件を耳にするたびにああ、また誰かの心が火を噴いたのか、と思うんです、これを観て以来。(いえ、決して事件を肯定する訳ではない事はご理解下さい)
話変わって、オム・テウンも出演している「家族の誕生」がレンタル始まりましたので是非ともご覧あれ。
こちらも三大要素は入ってないのですが、私の昨年(韓国公開は一昨年かな)のベスト1です。
私の生まれ育った斜陽の炭鉱町には、こんな常識からはみ出た「家族」が、確かに居たなあ。こんなたくましい女たちや、こんなしょうもない男達が棲んでいたなあ・・・と懐かしくて少しだけ幸せになるんです。
(あ、炭鉱町は映画とは関係有りません、単に個人的な思いです)
「家族の誕生」は、まだ観ていませんが、私の好きな俳優が何人も出ているので、楽しみです。
割り込み、失礼しました。
この監督のアイロニカルな視線って、やはり少数民族という位置から生まれてきたものだと思います。チャイニーズあるいはコリアン、どちらにも属しているような属していないような、いわば宙ぶらりんな立場ですと、おのずとそのどちらをも突き放した視線を持たざるを得なくなるでしょうね。逆にそれが、非常な強みでもあるわけですが・・・。チャン・リュルが新作で、韓国をどのように捉え、画面に映し出しているのか、興味深いです。
チャン・リュルの作品、DVDで入手できないかちょっと探してみましたが、私の追跡能力では見つけられませんでした(笑)。
代わりにと言ってはナンですが、こんな記事がみつかりました。
http://cinemakorea.org/korean_movie/
column/column197.htm
インタビューも載っています。アイデンティティーについて回答してますが、サモアルデアロウなあ、と共感しました。
もう一つ、こういうのもありました。
http://filmasia.blog.so-net.ne.jp/2007-09-28
新作のご準備でお忙しいところ、失礼しました。
でもまあ、この映画の男の子の場合は、より困難で深刻な状況に置かれているわけですが・・・。この男の子一挙手一投足にハラハラさせられる、佳品だと思います。
寝たきりの母を演ずる俳優も、大したものです。監督は、「悪い男」でだったと思いますが、キム・ギドクの助監督を努めた人だそうです。
ずっと書こうと思っていたのですが なかなかまとまらなくて・・・
居場所がない!スニはそこにいるのいないの?!
ここはどこ?私は誰?と・・・昔住んでいた異国で(そこは多民族国家でしたが)ふと路地裏に入った時に味わった感覚、その国のものとも、まして日本とも違う ここはどこ?私は誰?と不安になる そんな感覚を思い出しました(少数派の不安?)
作品中に不安と不安定が充満している、安定しているものといえば、スニなりの朝鮮族という揺るぎない誇り?と、ひたすらキムチを作って売ること
悲しいぐらいにスニも娼婦も不安定
最後に不安定が一気に爆発したようにスニが走っていくとき、その瞬間だけ、あ!この人生きてる!と思ったのはカメラの動きのせいなのですね
八方塞がりの閉塞感・・心が痛いです
こういう作品てなぜか 頭に残って、時々思い出しちゃうんですよね
ところでスニが住んでいたトタン屋根の家 なんとなくギドク監督の映像を思い出しました
ずいぶんたってからのコメントなので、カメラとスニ同様、捨て置かれる不安にかられています(笑)