小津安二郎__監督

■小津安二郎(日本)

画像画像画像







1903年12月12日-1963年12月12日。
東京・深川生まれ。


作品
1927年 懺悔の刃 (白黒サイレント)
1928年 若人の夢 (白黒サイレント)
1928年 女房紛失 (白黒サイレント)
1928年 カボチャ (白黒サイレント)
1928年 引越し夫婦 (白黒サイレント)
1928年 肉体美 (白黒サイレント)
1929年 宝の山 (白黒サイレント)
1929年 学生ロマンス (白黒サイレント)
1929年 和製喧嘩友達 (白黒サイレント)
1929年 大学は出たけれど (白黒サイレント)
1929年 会社員生活 (白黒サイレント)
1929年 突貫小僧 (白黒サイレント)
1930年 結婚学入門 (白黒サイレント)
1930年 朗かに歩め (白黒サイレント)
1930年 落第はしたけれど (白黒サイレント)
1930年 その夜の妻 (白黒サイレント)
1930年 エロ神の怨霊 (白黒サイレント)
1930年 足に触った幸運 (白黒サイレント)
1930年 お嬢さん (白黒サイレント)
1931年 淑女と髭 (白黒サイレント)
1931年 美人と哀愁 (白黒サイレント)
1931年 東京の合唱 (白黒サイレント)
1932年 春は御婦人から (白黒サイレント)
1932年 生れてはみたけれど (白黒サイレント)
1932年 青春の夢いまいづこ (白黒サイレント)
1932年 また逢ふ日まで (白黒サイレント)
1933年 東京の女 (白黒サイレント)
1933年 非常線の女 (白黒サイレント)
1933年 出来ごころ (白黒サイレント)
1934年 母を恋はずや (白黒サイレント)
1934年 浮草物語 (白黒サイレント)
1935年 箱入娘 (白黒サイレント)
1935年 東京の宿 (白黒音響版)
1935年 菊五郎の鏡獅子 (白黒)
1936年 大学よいとこ  (白黒音響版)
1936年 一人息子 (白黒)
1937年 淑女は何を忘れたか (白黒)
1941年 戸田家の兄妹 (白黒)
1942年 父ありき (白黒)
1947年 長屋紳士録 (白黒)
1948年 風の中の牝鶏 (白黒)
1949年 晩春 (白黒)
1950年 宗方姉妹 (白黒)
1951年 麦秋 (白黒)
1952年 お茶漬の味 (白黒)
1953年 東京物語 (白黒)
1956年 早春 (白黒)
1957年 東京暮色 (白黒)
1958年 彼岸花 (カラー)
1959年 お早よう (カラー)
1959年 浮草 (カラー)
1960年 秋日和 (カラー)
1961年 小早川家の秋 (カラー)
1962年 秋刀魚の味 (カラー)

画像


生い立ち
小津は東京深川の下町に、豪商湯浅屋の番頭だった父虎之助と母あさゑの次男として生まれた。9歳のときに父の郷里である三重県の松阪へ転居。その後旧制三重県立宇治山田中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)に入学。映画館通いに熱中して学校の授業には出なかったため、不良学生として寄宿舎から追放された。

代用教員
1921年(大正10年)神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を受験して失敗。1922年(大正11年)、三重師範学校(現三重大学教育学部)受験も失敗したが、現在の松阪市飯高町にある山村の宮前尋常小学校に1年間の代用教員として赴任。いつも羽織と袴、そして、下駄履きと他の教師とは違った異彩を放った風貌で、児童たちに映画の話をしたり、マンドリンを弾いたりして慕われる。現在でも彼の教え子達は健在であり監督以前の小津を語れる重要な人物としてよくインタビューを受けている。

映画人生
1923年(大正12年)3月に東京へ。親類のつてで松竹蒲田撮影所に入社。大久保忠素に師事する。1927年(昭和2年)『懺悔の刃』で初監督。
戦前は、『大学は出たけれど』、『生れてはみたけれど』などユーモア溢れる作風の監督として知られる。戦争中は軍部報道映画班としてシンガポールへ赴任。ここで、『風と共に去りぬ』など、接収された大量のハリウッド映画を観て過ごす。
戦後は『長屋紳士録』で復帰。以降は『晩春』『麦秋』『東京物語』などの名作を立て続けに発表し、日本映画界の重鎮となる。この時期の作品は、ほとんど前衛的とすら言える一貫した独自のスタイルに貫かれ、近づきがたい印象さえ一部の人間に与えているが、一般には松竹映画を代表する「ユーモアとペーソスの映画監督」として知られた。この時期の多くの作品は野田高梧との共同脚本であり、原節子や笠智衆などをメインキャストとしている。
1951年『麦秋』で芸術祭 (文化庁)文部大臣賞、1958年『東京物語』で同賞および英国サザランド賞受賞。1955年日本映画監督協会理事長。
戦後鎌倉に住み、里見弴と親しくなって、1958年里見と相談して同時並行で原作小説とシナリオを書き進め『彼岸花』を完成、1960年には同じ方式で『秋日和』を完成した。『彼岸花』で三度目の芸術祭文部大臣賞、功績により紫綬褒章受章、1959年日本芸術院賞受賞、1960年芸術選奨文部大臣賞を野田とともに受賞。
1962年二人暮らしだった母を失う。11月に映画監督として唯一の日本芸術院会員に選ばれる。63年里見とともにテレビドラマシナリオ『青春放課後』を書くがその後体調に異変あり、4月がんセンターで手術、いったん退院するが10月に東京医科歯科大学病院に再入院、ほどなく死去した。勲四等旭日小綬章を追贈された。

作風
ローポジション
地面ぎりぎりから撮影する独得の低いカメラアングルと厳格なまでの正面からの切り返しのフィクスショットを特徴とし、ローポジションの映画監督としても知られている。このローポジションで撮った「ちゃぶ台を囲む家族たち」のシーン、あるいは「婚期を逃しかけている娘を心配する父親」「父を思いやる娘」等、日本のテレビにおける「ホームドラマ」の型を完成させた監督でもある。 なお、小津安二郎の「切り返しショット」は通常の映画の「文法」に沿っていない、すなわち切り返しのショットにおいてイマジナリーラインを超えてはならないとされる「原則」に反していると指摘されている。この指摘は小津の生前から数多くなされていたが、小津は確信を持ってこの手法を取り入れていたため、少なくとも中期以降の作品においては、切り返しショットがイマジナリーラインを超えて真正面から捉える手法の大原則が破られることはなかった。こうした映画文法の意図的な違反が、独特の時間感覚とともに作品にポジティヴな違和感を生じさせており、特に海外の映画評論家から評価を得ている。

周囲
後輩の篠田正浩が「物がなくなっていく映画」とユニークに評している。また評論家の川本三郎によると彼は白樺派及び永井荷風の影響を受けたと評されている。
死後製作されたドキュメンタリー『生きてはみたけれど 小津安二郎伝』は、彼と共に松竹を支えた木下惠介、追い出されるようにして独立した新藤兼人、疑問を抱いて道を分けた今村昌平という3人の貴重な回想を、やはり「蛮さん」のニックネームで小津に可愛がられた井上和男が監督している。

評価
戦後の『晩春』以降の作品は国内でも評価が高くヒットしたが、死後は「古臭いホームドラマ映画監督」として忘れ去られようとしていた。これには「松竹ヌーヴェルヴァーグ」を担った大島渚や篠田正浩や吉田喜重など当時の新進監督たちによる古参監督たちへの反発も関与している。死後、しばらくしてからフランスを中心に国際的評価が高まり、その独特の映画スタイルが斬新なものとされ、著名な映画人たちが小津映画への敬愛を口にするようになった。日本では蓮実重彦らが精力的に執筆して、小津安二郎の再評価に努めた。
2003年は小津の生誕100周年にあたるため、記念プロジェクトが立ち上がり、各地で上映会等の記念イベントが催された。

国際的な支持
映画監督以上に映像芸術家として国際的に知られる日本人。溝口健二、成瀬巳喜男、黒澤明と並んで小津も評価が高く、作品『東京物語』はヨーロッパで人気が高い。
敬愛し、或いは影響を明言している作家は世界的にひろがる。その国の映画制作の巨匠も多い。

フランシス・コッポラ / ヴィンセント・ギャロ / ジム・ジャームッシュ
ポール・シュレーダー / アッバス・キアロスタミ / ホ・ジノ
ホン・サンス / ヴィム・ヴェンダース / ペーター・ハントケ
アン・リー / ホウ・シャオシェン / エドワード・ヤン
ビクトル・エリセ / アキ・カウリスマキ / ストローブ=ユイレ
ジャン=リュック・ゴダール / フランソワ・トリュフォー / ペドロ・コスタ
マノエル・デ・オリヴェイラ / メイベル・チャン / スタンリー・クワン


「東京物語」撮影風景
画像


●テプンさん
ありがとうございます。
というのも私が日本でいちばん好きな監督だからなんですが…(笑)。
好きなところは色々ありますが、
「私にはこういう映画しか撮れないので…」と、
終生、家族の物語を取り続けたところでしょうか…。
やっぱり人間、自分の身の丈をわきまえるのがいちばんいいんだよなあ、
と…(笑)。

ありがとうございました。



この記事へのコメント

テプン
2009年02月10日 22:08
こんばんは。

独身だった頃テレビで『東京物語』を観て感動して涙しました。婚期を逃した娘を思う笠智衆さんのお父さん、本当に美しい人だったのだと知った原節子さん、おっとりしたお母さんの東山千栄子さん、素晴らしい俳優ばかりでした。

緩やかに細やかに心の機微を描く『小津安二郎』さんは忘れられない名前です。大好きな監督です。