黒澤明__監督

黒澤明(日本)


画像画像画像










1910年3月23日 - 1998年9月6日、日本の映画監督。
小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に、
世界的にその名前が知られた日本映画の巨匠の一人。
日本では「世界のクロサワ」と呼ばれた。

監督作品
1943年●姿三四郎  東宝 大河内傳次郎、藤田進、志村喬
1944年●一番美しく  東宝 志村喬、清川荘司、入江たか子
1945年●續姿三四郎  東宝 大河内伝次郎、藤田進、月形龍之介
1945年●虎の尾を踏む男達  東宝 大河内伝次郎、藤田進、榎本健一
1946年●明日を創る人々  東宝 藤田進、高峰秀子、薄田研二、森雅之
1946年●わが青春に悔なし  東宝 原節子、藤田進、杉村春子
1948年●素晴らしき日曜日  東宝 沼崎勲、中北千枝子、渡辺篤
1948年●醉いどれ天使  東宝 志村喬、三船敏郎、木暮実千代、久我美子
1949年●静かなる決闘  大映 三船敏郎、三條美紀、志村喬、千石規子
1949年●野良犬  新東宝=映画芸術協会 三船敏郎、志村喬、木村功
1950年●醜聞  松竹=映画芸術協会 三船敏郎、山口淑子、志村喬
1950年●羅生門  大映 三船敏郎、京マチ子、志村喬、森雅之、千秋実
1951年●白痴  松竹 原節子、森雅之、三船敏郎、久我美子、志村喬
1952年●生きる  東宝 志村喬、日守新一、千秋実
1954年●七人の侍  東宝 志村喬、三船敏郎、木村功
1955年●生きものの記録  東宝  三船敏郎、志村喬
1957年●蜘蛛巣城  東宝 三船敏郎、山田五十鈴、志村喬
1957年●どん底  東宝  三船敏郎、山田五十鈴、香川京子、千秋実
1958年●隠し砦の三悪人  東宝 黒澤明 三船敏郎
1960年●悪い奴ほどよく眠る  東宝=黒澤プロ 
1961年●用心棒  東宝=黒澤プロ 三船敏郎、仲代達矢、司葉子
1962年●椿三十郎  東宝=黒澤プロ 三船敏郎、仲代達矢
1963年●天国と地獄  東宝  三船敏郎、仲代達矢
1965年●赤ひげ  東宝=黒澤プロ 三船敏郎、加山雄三、山崎努、団令子
1970年●どですかでん  四騎の会=東宝  頭師佳孝、菅井きん、三波伸介
1975年●デルス・ウザーラ モスフィルム  ユーリー・ナギービン ユーリー・サローミン
1980年●影武者  東宝=黒澤プロ 仲代達矢、山崎努、萩原健一、根津甚八
1985年●乱  グリニッチ・フィルム=ヘラルド・エース 仲代達矢、寺尾聰、根津甚八
1990年●夢  黒澤プロ 寺尾聰、倍賞美津子、原田美枝子、いかりや長介
1991年●八月の狂詩曲  黒澤プロ 村瀬幸子、吉岡秀隆
1993年●まあだだよ  大映=電通=黒澤プロ 松村達雄、香川京子、所ジョージ

その他の映像作品
●藤十郎の恋(1938年5月1日公開、山本嘉次郎演出) 製作主任
●綴方教室(1938年8月21日公開、山本嘉次郎演出、東宝) 製作主任
●馬(1941年3月11日公開、山本嘉次郎演出、東宝映画 製作主任
●翼の凱歌(1942年10月15日公開、山本薩夫監督) 脚本
●土俵祭(1944年3月30日公開、丸根賛太郎監督、大映) 脚本
●四つの恋の物語 第一話「初恋」(1947年3月11日公開、豊田四郎演出) 脚本
●銀嶺の果て(1947年8月5日公開、谷口千吉監督) 脚本
●肖像(1948年7月27日公開、木下惠介監督) 脚本
●ジャコ万と鉄(1949年7月11日公開、谷口千吉監督) 脚本
●暁の脱走(1950年1月8日公開、谷口千吉監督、東宝) 脚本
●殺陣師段平(1950年8月26日公開、マキノ雅弘監督、東京映画配給) 脚色
●獣の宿(1951年6月8日公開、大曾根辰夫監督) 脚本
●荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻(1952年1月3日公開、森一生監督) 脚本
●戦国無頼(1952年5月22日公開、稲垣浩監督) 脚本
●ソ満国境2号作戦 消えた中隊(1955年1月公開、三村明監督、日活) 脚本
●あすなろ物語(1955年10月5日公開、堀川弘通監督) 脚本
●日露戦争勝利の秘史 敵中横断三百里(1957年12月公開、森一生監督) 脚本
●戦国群盗伝(1959年8月9日公開、杉江敏男監督) 潤色
●荒野の七人(1960年製作、ジョン・スタージェス監督、アメリカ映画) 原作
●殺陣師段平(1962年9月30日公開、瑞穂春海監督、大映) 脚本
●暴行(1963年製作、マーティン・リット監督、アメリカ映画) 原作
●荒野の用心棒(1964年製作、ボブ・ロバートソン監督、イタリア映画) 原作
●ジャコ萬と鉄(1964年2月8日公開、深作欣二監督) 脚本
●姿三四郎(1965年5月29日公開、内川清一郎監督、東宝) 製作/脚本
●野良犬(1973年9月29日公開、森崎東監督) 原作
●暴走機関車(1985年製作、アンドレイ・コンチャロフスキー監督) 原案
●ドキュメント黒澤明 A・K(1985年製作、クリス・マルケル監督) 出演
●雨あがる(2000年1月22日公開、東宝/アスミック・エース) 脚本
●どら平太(2000年5月13日公開、市川崑監督) 脚本
●海は見ていた(2002年7月公開、熊井啓監督、ソニー・ピクチャーズ/日活)脚本
●赤ひげ(2002年12月28日放送、フジテレビ) 脚本
●旋風の用心棒(2003年1月25日公開、川原圭敬監督、エムロックス) 原案
●SAMURAI 7(2004年6月12日~12月25日放送、パーフェクト・チョイス) 原作
●椿三十郎(2007年12月1日公開、森田芳光監督、東宝) 脚本
●隠し砦の三悪人(2008年5月10日公開、樋口真嗣監督、東宝) 脚本

作詞
ジャングルブギ(服部良一作曲、笠置シヅ子唄)
七人の侍(早坂文雄作曲、山口淑子唄)

受賞歴 
「羅生門」1951年ヴェネチア国際映画祭金獅子賞・イタリア批評家賞
   1951年ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞
   1953年アメリカ監督組合賞ノミネート
   1952年米アカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞)
「生きる」1954年ベルリン国際映画祭ベルリン上院特別賞
「七人の侍」1954年ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞
「隠し砦の三悪人」1958年ベルリン国際映画祭銀熊賞監督賞・国際批評家連盟賞
「赤ひげ」1965年ヴェネチア国際映画祭国際カトリック映画事務局賞(OCIC Award)
   モスクワ映画祭ソ連映画人同盟賞
   フィリピン・マグサイサイ賞ジャーナリズム部門賞)
「どですかでん」モスクワ映画祭映画労働組合賞
「デルス・ウザーラ」1975年モスクワ映画祭金賞・国際連盟批評家賞
   1976年米アカデミー賞外国語映画賞
   1977年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)
   1977年イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)、パリ国際映画祭賞
「影武者」1980年カンヌ国際映画祭パルム・ドール
   1981年英国アカデミー賞監督賞
   1981年セザール賞外国語映画賞
   1981年イタリア批評家協会賞監督賞(外国語)
   1981年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)
   1981年ベルギー映画批評家協会監督賞
「乱」1985年米アカデミー賞監督賞ノミネート
   1985年全米批評家協会賞作品賞
   1985年ニューヨーク批評家協会賞外国映画賞
   1985年ロサンゼルス批評家協会賞外国映画賞
   1985年ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞監督賞
   1985年ボストン批評家協会賞作品賞
   1986年伊ダビデ・ディ・ドナテルロ賞監督賞(外国語)
   1987年英国アカデミー賞外国語映画賞
   1987年ロンドン映画批評家賞監督賞)

1979年 モスクワ映画祭名誉賞
1980年 カンヌ国際映画祭35周年記念特別表彰
1982年 ヴェネチア国際映画祭栄誉金獅子賞
1985年 文化勲章
1986年 アメリカ監督組合賞特別賞
1990年 米アカデミー名誉賞
1990年 日本国福岡市 福岡アジア文化賞創設特別賞
1992年 アメリカ監督組合賞生涯功労賞
1998年 国民栄誉賞



経歴
監督になるまで
東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)の学校法人日本体育会(現:日本体育大学)敷地にて、4男4女の末っ子として生まれる。父親は秋田県大仙市(旧中仙町)出身の元軍人、体育教師、学校法人日本体育会理事。黒田小学校を経て、1928年、京華中学校卒業。画家を志して日本プロレタリア美術家同盟に参加、洋画家の岡本唐貴(白土三平の実父)に絵を教わる。1936年、画業に見切りをつけて26歳でP.C.L.映画製作所(現在の東宝)に入社。谷口千吉の推しで主として山本嘉次郎の助監督(「馬」などを担当)を務める。

白黒映画監督時代
1943年、『姿三四郎』で監督デビュー。以後、終戦を挟んで『一番美しく』『わが青春に悔なし』『素晴らしき日曜日』『醉いどれ天使』『野良犬』などの社会派ヒューマンドラマの佳作を次々と発表し、東宝の看板監督の一人となる。
また山本が参加していたオーディションで、三船敏郎をたまたま目撃。本来は落選となっていた三船だが、一目ぼれした黒澤は山本に直訴までして採用。三船のデビュー作『銀嶺の果て』では既に脚本を務めた(主演は志村喬)。三船のデビュー3作目『醉いどれ天使』からは、黒澤監督作品の常連俳優となった。

自身の映画制作
東宝争議の混乱を経て、成瀬巳喜男らと映画芸術協会を設立し東宝を退社。1950年に大映で撮影した『羅生門』は1951年にヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。その映像感覚が国際的に注目される。続けてドストエフスキー原作の『白痴』(1951年)やヒューマンドラマの傑作『生きる』(1952年)を発表し、後者でベルリン国際映画祭上院特別賞を受賞。
1954年に発表した大型時代劇『七人の侍』は大ヒットし、ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞を受賞するなど国際的評価も受ける。シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代を舞台に翻案した『蜘蛛巣城』(1957年)や娯楽時代活劇『隠し砦の三悪人』(1958年)を作成後に、独立プロダクションである黒澤プロを設立。時代活劇の傑作『用心棒』(1961年)『椿三十郎』(1962年)、社会派サスペンスの傑作『天国と地獄』(1963年)を立て続けに発表し大監督の名声を確定させる。
黒澤プロの設立は、黒澤監督の意向によるものというより、『隠し砦の三悪人』の大幅な撮影予定期間オーバーによる予算超過に業をにやした東宝側が、黒澤にリスク負担させることにより枷をはめようとしたものであり(収益の分配も東宝側に非常に有利な契約になっていた)、「天国と地獄」までの作品はその皮肉な成果といえよう。枠をはめられる事を嫌っていた黒澤がその完全主義を徹底させた『赤ひげ』(1965年、 山本周五郎原作)は、撮影期間約1年を要して大幅な予算超過となり、東宝との関係を悪化させることとなった。

白黒映画および三船との決別後
ハリウッドからのオファーを受けるようになった黒澤は『赤ひげ』の撮影後、アメリカで『暴走機関車』の制作を準備、主演にピーター・フォークとヘンリー・フォンダ、撮影監督にオスカー受賞者ハスケル・ウェクスラーが決定していたが、監督として雇われたのにもかかわらず、勝手に脚本を執筆した黒澤チームが本来の脚本家が書いた脚本に納得しなかったことや制作方針を巡りアメリカ側プロデューサーのジュセフ・E・レヴィンと深刻な対立が生じたために頓挫(黒澤は65ミリカラーを希望したが、ハリウッド側は35ミリ白黒を提示した)(後にアンドレイ・コンチャロフスキーが黒澤の脚本を原案として映画化)。1968年に日米合作『トラ・トラ・トラ!』の総監督を務めることになったが、製作会社の20世紀フォックスと、撮影スケジュール等の問題から激しく衝突。監督を降板させられた。この事件は黒澤に精神的打撃を与えたとされており、2年後に自殺未遂事件を起こす。そして日本の映画産業の衰退の時期と重なったこともあり、この後は5年おきにしか新作が撮れなくなる。
1975年にソビエト連邦から招かれ(日本のヘラルド映画社がロシア側に接触して「黒澤を招いた」という形になるようお膳立てした)、ごく少数の日本人スタッフを連れてソ連に渡り『デルス・ウザーラ』を製作。ソビエト連邦の官僚体制の中で思うように撮影が進まず、シベリアのタイガでのロケ撮影は困難を極めた。完成した作品は、それまでの作風と異なり極めて静的なものであったため、日本国内では酷評も出たが、モスクワ映画祭金賞、アカデミー外国語映画賞を受賞し、ソビエト連邦の期待に十二分に応え、日本国外では黒澤復活を印象付ける作品となる。

1976年11月、日本政府から文化功労者として顕彰される。
その後も、日本国外資本参加による映画制作が続き、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラを外国版プロデューサーに配した『影武者』(1980年)、フランスとの合作の『乱』(1985年)、米ワーナー・ブラザーズ製作でスティーブン・スピルバーグが提供を務めた『夢』(1990年)等の作品を監督。
1985年11月、文化勲章受章。
1990年米アカデミー名誉賞を受賞。ルーカスとスピルバーグが「現役の世界最高の監督です。“映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を送ります」と紹介した。
『八月の狂詩曲』(1991年)、『まあだだよ』(1993年)に続く次回作として予定されていた『雨あがる』の脚本執筆中に京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入り1998年9月6日脳卒中により死去、88歳没。叙・従三位。同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞、翌1999年には米週刊誌タイム・アジア版で「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」に選ばれた。

作品をめぐる評価とその演出
黒澤が日本映画史を代表する映画監督であることは疑問の余地がない。国際的にも20世紀の映画監督として十指に必ず入る大監督である。骨太のヒューマニズムやストーリーテリングの巧みさ、鋭い映像感覚は映画のお手本として多くの後進映画監督たちに影響を与えた(後述の「世界的な影響」を参照)。ただし、『どですかでん』以後のカラー作品については評価が分かれ、娯楽性よりも芸術性を重視したそれらの作品に対しての否定的な見解も出されている。
妥協を許さない厳しい演出はことに有名で、何ヶ月にもわたる俳優たちの演技リハーサル、スタッフと役者を待機させながら演出意図に沿った天候を何日も待ち続ける、カメラに写らないところにまで大道具小道具を作り込む、撮影に使う馬はレンタルせず、何十頭を丸ごと買い取って長期間調教し直してから使う、ロケ現場に立っていた民家を画に邪魔であるとして立ち退きを迫った等々逸話は多い。
『荒野の用心棒』の盗作問題で、セルジオ・レオーネ監督は「しかし、この映画だって元はといえば『血の収穫』のパクリじゃないか」という趣旨のことを述べているように、黒澤映画のすべてがオリジナルという訳ではない。そもそも黒澤自身が晩年に至るまで新しいスタイルを取り込むことに貪欲だった。『乱』ではそれまでのリアリズムを放棄して能装束を大胆に取り入れ(衣装デザイナーはワダ・エミ)、城内をカフェバーのような間接照明でデザインした。また城門の撮り方や前半のクライマックスの「三の城」炎上のシーンはフリッツ・ラング監督の『ニーベルンゲン』の宮殿炎上シーンと構図に多数の類似点がある。『夢』の川面を映すシーンの撮影方法はタルコフスキーに教えてもらったものである。また大林宣彦監督の『さびしんぼう』が大好きで、スタッフに見るように推薦したという。そのためか、『八月の狂詩曲』は、子供の使い方や語り口、特撮合成に至るまで、親子ほども年齢差のある年下の大林宣彦監督の影響を受けたものとなった。

新技術導入に意欲的だった黒澤だが、特撮映画については長らく及び腰ではあった。東宝の同僚である本多猪四郎とは無二の親友であったし、『ゴジラ』も評価していたにもかかわらず、東宝のお家芸であるミニチュアセット撮影を黒澤は好まなかったのである。「蜘蛛巣城」では霧の中で動く森が東宝特技によるミニチュア撮影であるが、その出来について黒澤は不満を漏らしている。『天国と地獄』前半の権藤邸から見える横浜の景色には、実景の他にミニチュアセットを組んで撮影しているが、殆ど使用されなかった。『赤ひげ』では山崎努の回想シーンで大地震が描かれるが、ミニチュア特撮のシーンが入りそうな所でも黒澤は実際の古い家屋を引き倒した映像を使うに留めている。また光学合成も殆ど使用した事が無い。
しかし後年になると、例えば『乱』で城の炎上シーンにミニチュア映像との光学合成が使用されるなど、作例が現れる(『乱』ではこの他に、一の城の天守閣の窓から見える外の光景、秀虎に矢で殺された男の地面に広がる血、三の城合戦での矢の一部、地平線から見える三の城炎上の煙、兜の鍬形の反射光等)。『夢』ではVFXが積極的に取り入れられ、「鴉」のエピソードではハイビジョンでのデジタル合成が行われ、空を飛ぶ鴉はCGIで数が増やされている(この「鴉」以外の合成シーン等はILMが担当した)。

三船敏郎との関係
黒澤は1948年の『醉いどれ天使』にはじまり、1965年の『赤ひげ』まで、主演には三船敏郎を頻繁に起用した。この時期の黒澤作品は「三船無くして黒澤は無く、黒澤無くして三船は無い」とでもいうべき、スター俳優とスター監督との幸福な関係に支えられているといってよい。
「赤ひげ」を最後に黒澤は三船を使わなくなり、その為2人の関係は様々に取り沙汰されることになる。

世界的な影響
日本国外の映画作家らへの影響は計り知れず、直接作品の中で模倣されたものだけでも枚挙に暇が無い。ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想したと述べており(そもそも『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のストーリー自体が『隠し砦の三悪人』に酷似しており、ファーストシーン・ラストシーンともそっくりである)、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』の砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で主人公が後ろ姿だけで顔を見せない冒頭は『用心棒』、『シンドラーのリスト』のパートカラーは『天国と地獄』、『プライベート・ライアン』のオマハビーチの戦闘シーンは『乱』を模したと言われ、フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のファーストシーンの結婚式の場面は『悪い奴ほどよく眠る』の手法を模したといわれる。また、『七人の侍』が米映画『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督)、『用心棒』が米映画『ラストマン・スタンディング』(ウォルター・ヒル監督)などに翻案された。イタリア映画『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)のように盗作問題に発展したケースもある。
技術的には、例えばサム・ペキンパー監督が得意として他のアクション映画でも多用される、アクションシーンのスローモーション撮影は、元はといえば黒澤明の手法であったし、アクションシーンを望遠レンズで撮る技法も同様である。また、雨や風、水といった自然描写の巧みさはアンドレイ・タルコフスキーのような芸術映画監督を感嘆させて影響を与えたし、『羅生門』の映像美とストーリーテリングの巧みさはフェデリコ・フェリーニが深く共感した。この映画では、どしゃぶりの雨の質感を出すために墨汁を混ぜた水を放水車で降らせる、当時の技術的タブーを破って太陽に向かってカメラを向けさせる、森の中を走るシーンを移動撮影ではなくてパニングで撮るために俳優達をカメラの周りを円を描くように走らせる、といったように視覚効果を得るため様々な工夫を凝らしている。
さらに、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』(ピーター・ジャクソン監督)の合戦シーンで、「七人の侍」の雨の中で弓を引く勘兵衛のショットがそのまま引用されていたり、『ラストサムライ』(エドワード・ズウィック監督)では雨や風、馬や屍の使い方など、黒澤映画から引用されたショットは多数に渡っている。黒澤明を尊敬しているとコメントした映画人は数知れないほどであり、主役格が『七人の侍』の影響からか7人である映画は非常に多い。

その他
熊井啓監督作品『海は見ていた』は、元々黒澤により撮影される予定で脚本まで書かれていたが、ラストの嵐のシーンに広大なセットを必要とされていたため、コストの面で折り合いがつかず、制作が実現しなかった作品である。全編をラブストーリーで構成するという内容は、それまで黒澤の作品には珍しく、人生最後の作品にはラブストーリーを撮りたかったという説もある。また没後映画化された脚本(時代劇)とは別に、仲代達矢は黒澤が生前『戦争と平和』(トルストイ)の映画化を考えていたと証言している。
私生活の黒澤はグルメで知られ、この年代の日本人には珍しく肉料理が多かったと家族が著書に記している。対談した北野武もその旺盛な肉食に感嘆したと述べている。本人は北野に『食事はバランス』だと語ったらしいが、交友を通じてその言葉を理解した所によると、肉と野菜などをバランス良く取ることではなく、牛肉 豚肉 鶏肉等々の色んな種類の肉を食べる事だと言った趣旨であったと苦笑している。 旺盛な創作意欲の原動力に美食生活が欠かせなかったのか、妻や娘が腕によりを掛けた手料理を振舞ったが、一方で食費が余りに高くつくので税務署に疑われるという冗談のような出来事もあったという[1]。撮影がトラブル続きで機嫌が悪いときも、好物のスッポン料理を口にすると機嫌が直るほどであった。また、酒も煙草も嗜んだ。1993年にイランのアッバス・キアロスタミ監督が来日・対談した折は「黒澤に飲みに行こうと誘われたけど、後ろにいたスタッフの方が『断って』と合図を出すので已む無く断った。後で理由を聞いてみると、黒澤には酒量を減らすようドクターストップが掛かっているとのことだったそうだ。是非行きたかったのでとても残念です」と後年述懐している[2]。また、大酒飲みであったので、三船敏郎は打ち上げになると逃げてどこかへ行ってしまい、代わりに宝田明が呼ばれて、幹事の如く仕切らせられたという。

佐原健二は、乗っていた車が黒澤のかわいがっていた俳優と同じだというだけの理由で説教をされそうになったが、佐原と関係の深かった本多猪四郎が黒澤と仲が良かったということで説教されずに済んだという。
山田洋次は、黒澤宅を訪問した際に、黒澤は小津安二郎の東京物語をビデオ鑑賞していたという。
俳優の藤木悠によると、藤木が「監督もこういうの(ゴジラ映画)撮ったらどうですか」と聞いたところ、黒澤も「面白いね」と乗り気であったという。その後、その話を聞きつけた東宝撮影所長が藤木のもとに現れ、「黒澤さんが本気になって(ゴジラ映画を)撮ったら会社が潰れる」と注意されたという。
宮崎駿をTVシリーズの『ルパン三世』の頃から評価しており、生前までのほとんどの作品を好んで鑑賞し、対談も果たしている。しかし、『火垂るの墓』を宮崎の作品と勘違いして賞賛した手紙を送ってしまい、受け取った宮崎は渋い顔をしたという。黒澤和子によると『魔女の宅急便』は涙を流して感動していて、最も好きな作品は絵柄的にも内容的にも『となりのトトロ』だろうと語る。
身長180cmと明治生まれの日本人としてはずば抜けた長身だった。(三船敏郎より身長が高い)晩年にアカデミー賞の名誉賞を受賞した際にプレゼンテーターを務めた一世代若いジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグよりも頭一つほど大きかった。

芸能界に関係する家族
(妻)矢口陽子(女優、結婚後に引退)。
(長男)黒澤久雄(タレント、プロデューサー、黒澤プロダクション代表取締役社長)
(前妻)林寛子(タレント、後に離婚)。
(孫・長男)
(孫・長女)黒澤優(元女優、夫は松岡充)
(孫・次女)黒澤萌(歌手)
(長女)黒澤和子(デザイナー)
(前夫)加藤晴之(加東大介の息子、後に離婚。つまり長門裕之や津川雅彦などのマキノ一族とも縁戚関係にあった。)
(孫・長男)加藤隆之(俳優)

著作権問題
上記の作品の内、1952年までの作品は著作権の保護期間が終了(公開後50年)したと考えられたことから、幾つかの作品が激安DVDで発売された。これに対し、製作者(版権継承者)の東宝と角川映画は2036年(監督没後38年)まで著作権が存続するとして発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを東京地裁に起こした。2007年9月14日に東京地裁で原告勝訴の判決が下った。松竹作品についても2008年1月28日に東京地裁で原告勝訴の判決が下った。発売業者は控訴の方針。

関連文献
『 黒澤明全集 』 全7巻 岩波書店 
黒澤明  『蝦蟇の油 自伝のようなもの』 岩波書店 のち岩波現代文庫 
黒沢明 『海は見ていた 巨匠が遺した絵コンテシナリオ創作ノート』 新潮社 2002年 
黒沢プロダクション監修 『黒沢明全画集』 小学館 1999年
黒沢明述 文藝春秋編 『黒沢明「夢は天才である」』 文藝春秋 1999年

黒沢和子 『回想黒沢明』  中公新書  2004年
黒沢和子 『パパ、黒沢明』 文藝春秋 のち文春文庫 2004年
黒沢和子 『黒沢明の食卓』 小学館文庫  2001年
野上照代 『天気待ち 監督・黒沢明とともに』 文藝春秋 のち文春文庫 2004年
堀川弘通 『評伝黒沢明』 毎日新聞社2000年 ちくま文庫 2003年
土屋嘉男 『クロサワさーん! 黒沢明との素晴らしき日々』 新潮社 のち新潮文庫 2002年  
樋口尚文 『黒沢明の映画術』 筑摩書房 1999年  
三国隆三 『黒沢明伝 天皇と呼ばれた映画監督』 展望社 1998年
文藝別冊 KAWADE夢ムック『追悼特集 黒澤明』 河出書房新社 1998年
キネ旬ムック・野上照代他編 『黒澤明 天才の苦悩と創造』 キネマ旬報社 2001年
キネマ旬報編集部編 『黒沢明集成』全3冊 キネマ旬報社 1989年~93年
MOOK21 黒澤明研究会編 『黒澤明~夢のあしあと~ 共同通信社 1999年
『淀川長治、黒沢明を語る』 河出書房新社 1999年
西村雄一郎 キネ旬ムック 『黒澤明を求めて』 キネマ旬報社 2000年  
西村雄一郎 『黒沢明封印された十年』 新潮社 2007年
西村雄一郎 『黒沢明と早坂文雄 風のように侍は』 筑摩書房 2005年
西村雄一郎 『黒沢明 音と映像』 立風書房 1990年 1998年
西村雄一郎 『巨匠のメチエ 黒沢明とスタッフたち インタビュー集』フィルムアート社 1987年
佐藤忠男 『黒沢明の世界』 朝日文庫  1986年
佐藤忠男 『黒沢明作品解題』 岩波現代文庫 2002年 
橋本忍   『複眼の映像 私と黒沢明』 文藝春秋 2006年
田草川弘 『黒沢明vsハリウッド 【トラ・トラ・トラ!】その謎のすべて』 文藝春秋 2006年
都築政昭 『黒沢明と 七人の侍』 朝日ソノラマ のち朝日文庫 2006年
都築政昭 『黒沢明と『用心棒』 ドキュメント・風と椿と三十郎』 2005年
都築政昭 『黒沢明と『生きる』 ドキュメント・心に響く人間の尊厳』 2003年
都築政昭 『黒沢明と『天国と地獄』 ドキュメント・憤怒のサスペンス』 2002年 
都築政昭 『黒沢明と『赤ひげ』 ドキュメント・人間愛の集大成』 2000年 朝日ソノラマ
都築政昭 『黒沢明「一作一生」全三十作品』 講談社 1998年


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この記事へのコメント

PineWood
2015年08月14日 06:11
フリッツ・ラング監督の史劇(ニーベルンゲン)第二部のラストの宮殿炎上シーンを見ていて、直ぐに黒澤明監督作品を思い浮かべました。大きな影響を受けていて摂取していたと判り納得。山田洋次監督が黒澤家で本人が小津安二郎監督の映画史上の名作(東京物語)を見ていた…と述べていてましたが、なるほど(まあだだよ)のユーモラスでシリアスなタッチで結実!!音楽、文芸、絵画…そして映画を愛したがゆえに絶対いい映画を残そうという黒澤明監督の執念を感じさせられます。

この記事へのトラックバック