キルソドム (1985)

[376]語り部イム・グォンテクが語る母親ファヨンの杳として知れない心…?


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イム・グォンテクの作品。
という以外なにも知らずに観たんだけど、
「…………」     
また、ことばを失ったよ。

はじまりからラストまで、
ただひたすらもうじっと画面に食い入ってしまうほかないのよ。

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物語は一言でいうと、
日本の朝鮮侵略、第二次大戦、朝鮮戦争と、
相次ぐ動乱で離散させられた家族が、戦後…、
といっても1983年の話だから、
ずいぶん時間が経ってからのことなんだけど、
家族探しをはじめるお話…。

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そういう南北分断の悲劇を扱った作品は、
韓国映画には当然ひじょうに多いし、
また優れた作品もこれまでけっこう観てきたとおもうけど、
この作品はその中でもひときわずば抜けてるんだよねえ。

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どう見てもそう言うしかない。
この手の作品になるともう全然説得力が違うというか、
重みが違うというかさ。

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たぶん半世紀以上も、そうした朝鮮の歴史を生きてきたこともあって、
監督自身、きっとなんの身構えもなく、す~っと、
ほんと自然に時代の「語り部」になっちゃうからだと思う。

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そういう意味で言うと、
イム・グォンテクはほかの作家と違って、
韓国の時代が…、
朝鮮人という民族そのものが作りあげた作家?

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個人でありながら、もう
どうしようもなく個人であることを超えてる作家?

だから優れた作家であるイ・チャンドンらが
束になってももう敵いっこないっていうかね。
ま、敵おうなんておもう必要もないんだけど(笑)。

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それが顕われてるのはやっぱり物語のラスト?

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医師は、親子なのはほぼ間違いないって言うんだけど、
ファヨン(キム・ジミ)は、
100%の確証がないと受け入れられないと言って、
チョクソルをわが子として認知しないまま帰ってしまうの。

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普通の作家だと
ほとんどがチョクソルを自分の子と認知させて終わるだろうし、
よくてもせいぜいファヨンを悩ませて終わる?

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でもイム・グォンテク監督は間違いなく確信犯なの。
100%の確証がないかぎり認知させないって言わせる?
それはもう最初から決めてた?
そこがもう全然違うのよ。

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で、イム・グォンテクが確信犯になる理由はひとつ。

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ファヨンが車で帰途中、
ラジオニュースからも流れてくるんだけど、
親子、兄弟だとわかっても、その後、会いにも行かない、
接触しようともしない一群の人々がいるからなんだよね。

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少数だろうけど、そうしたひとたちがいる。
間違いなくいる。
イム・グォンテクはそうしたひとたちの立場に立つから。

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つまり、そうしたひとたちの一群がいるってことは、
打ち続いた被侵略、被支配、戦争、分断、南北代理戦争、
そうした朝鮮民族の歴史が、
そうしたひとたちを作りあげたということ。

そんな歴史の中で、かれらの心はもう
ちょっとしたことでは救われない傷を負ったのだということ。

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語り部イム・グォンテクとしては、
そのことを言わざるをえないんだよね。
朝鮮のひとたちが歴史に受けたあまりにも深い傷を?

低すぎて聞こえない声、声にならない声、
そういうひとたちの声と徹底して一緒の場所にいる。
ほんと、すごい監督!

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ファヨンの最後の態度はなんだよ、
上流階級にしがみついてるの?
なんて観てしまうと、間違っちゃうよね。

実際、一緒に息子探しに行った昔の恋人ドンジンも、
「ファヨンは変わった…」みたいに受け取って、
彼女が置いていった連絡先(名刺)をゴミ箱に捨てちゃうんだけどさ。
違うんだよねえ。

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そう言ってよければ、ファヨンはドンジンをいまも愛してて、
息子だと認知すると、ドンジンが入籍させて、
貧しいドンジンの家族も共倒れしてしまう…、って思ったんだよね。
だから認知しなかった。

でもドンジンには彼女の心が汲み取れなかった。
で、あれだけ愛し合った二人の心がそんなふうにすれ違ったのも、
結局、朝鮮の歴史の傷跡を物語っているのだ、
と、イム・グォンテクは語ってるんだよね。

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そうしたすべてを一瞬に物語っているのが、
息子に会いに行く途中にある、あの「坂道」だよね。

ファヨンの運転する車が坂道を登って、谷底へ下るように下る。
その間、車の姿が消え、再び坂道を登っていく姿が見える。
そして峠まで上りつめると、また下るのか、
姿が見えなくなる…。

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あの坂道が…、見えない「谷底」をもつ道が、
イム・グォンテクの言いたいこと、
この物語の言いたいことをすべて語ってる?

この映画を構想したとき、
監督にはもうこの「道」がロケ地としてあったんだろうなあ
って思ったよ。

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もうひとつある。

ラスト、ファヨンはこの道を下って帰る。
と、カー・ラジオからニュースが聞こえてくる。

「離散した家族だとわかっても、会わないひとたちもいる。
でも、わたしたちが単一民族だということには変わりない」
みたいな。

その声を聞いてファヨンは運転を誤り、
一瞬、事故を起こしそうになる。
そのあとどうするのかな?
ドンジンとチョクソルのもとへ戻るのかな?

と観てたんだけど、
やっぱりそのまま自分の家族のいる家へ向かうよね。

そこでもなんで?と思うかもしれないけど、

ああ、彼女の心、恨(ハン)だよなあ。
自分たちを、朝鮮民族を
谷底深く落とした侵略者たちを許せないんだよなあ
ってこと?

どうやっても許せないからチョクソルを…、
自分の息子を自分の息子として認知しないんだよね。

認知しないことでじつは侵略者たちに抗議してるんだよ。
彼女、いまなお抗戦中なんだよね。

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しかし、キム・ジミとシン・ソンイル、素晴らしいなあ。
60年代から韓国映画を支えてきた俳優らしいんだけど、
素晴らしいって言うしかないよ。

キム・ジミ、淡島千影を彷彿させる顔立ちだったけど、
ああ、イ・ミスク、
こういう女優さんたちを観ながら育ってきたんだあって、
ちょっと謎が解けた気分?(笑)

やっぱり環境だよね。
環境が人間を、そして俳優をつくる?

そう意味で言うとさ、
韓国の俳優さんたち、もう全員、
一度でいいからこの監督と一緒に映画つくるといいよ(笑)。
もう100年はこんな監督さん現れないから。

私もさ、生まれ変わったら、
イム・グォンテク監督に弟子入りして一緒に映画撮るの。
もう決めちゃってるの(笑)。

レンタル屋さんにはもう
なかなか置いてないかもしれないけど、
映画ファンならこれはもう絶対観ておくべき作品!

物語の創りかたも映像も天才的だから。

韓国の歴史も、ひとたちの心も
ほんとによくわかるから!


●Kさん
え~、すこし大きな声出していいですか?
なんでこの作品、教えてくれなかったんだよお~!!
はい、ちょっとすっきりしました(笑)。
あ…、まだ隠してないでしょうね、イム・グォンテクのお薦め作品…?
隠してはいけませんよ、映画は人類の財産なんですから。
個人的所有物ではないんですから…(笑)。
しかし、いい映画ですよねえ。
ファヨンという人物造形なんかとても凡人にはできませんね。
いや、イム・グォンテク、間違いなく映画史上十指に入る監督です。
Kさん、私の作る舞台はツァイ・ミンリャンと似てると言ってくれましたが、
どっちかって言うと、イム・グォンテクに似てません…?
似てますよね? いや、もうそっくりだと思いますねえ。
委細かまわずドンドン行っちゃう呼吸なんか、ほんとそっくりです(笑)。
自分でも血縁関係にあるのかなと思っちゃったりして…。
私は九州ですからねえ、韓国は隣町ですからねえ(笑)。
ところで残念なことに、若い韓国映画人はもう少し
イム・グォンテク勉強したほうがいいよ、
というのが最近とみに感じることですねえ。
大学で映画の勉強して…、という映画人が多いせいですかね。
イム・グォンテクとの連続性、あまりないですねえ。
そういう道は発想の柔軟性を育む上ではいいと思うけど、
直接、監督について、現場で勉強したほうが
勉強になることも多いと思うんですけどね。
唐、寺山、鈴木忠志みたいな考えかたや感性、
大学なんかではもう絶対教えてくれないし、教えられないでしょう…?
それと一緒だと思うんですけどねえ。
Kさん、韓国に行ったら、すこしアジってくださいな。
「諸君、イム・グォンテクを見習え! 丁稚奉公しろ」って…(笑)。

●Kさん
あ、なるほど。ポン・ジュノ監督ですか。
「殺人の追憶」はイム・グォンテクの匂い感じますねえ。
でも「南極日誌」「ほえる犬はかまない」「グエムル」は
どうなんでしょうねえ…?
グォンテクが好きだとしたら、映像、フィルム編集のリズム、
呼吸、物語の複合線のつくり方、もっと徹底的に
勉強したほうがいいんじゃないかって思いますねえ…(笑)。
「祝祭」、まだ観れてないんです。
近いうちに観ますね。

●てっせんさん
「チケット」「シバジ」、そして、てっせんさんが、
自分が男であることが嫌になってしまう感情を
憶えさせられてしまった「娼」ですか…。
いやあ、そのお言葉を聞くだけで、観たくて
からだがムズムズしてしまいますね。
なんとかならないんでしょうかねえ。
う~ん、NHKの誰かに頼んで貸してもらう…?
それとも韓国の映画会社に働きかけてDVD化してもらう…?
いやいや、私がもう少し若かったら
芝居なんかやめて、そっちの仕事したかったですねえ…(笑)。
ところでこの「キルソドム」ですが、この作品だけを観たら、
私もてっせんさんと同じような見方をしていたかなと思います。
でも、ファヨンは「変わった」という見方をしてしまうと、
この映画、あまり面白くないし、またイム・グォンテクが
なぜファヨンを主人公にして、これほど執拗に描いたのかも
私にはわからないというか、納得できないんですね…(笑)。
おっしゃるように三者三様の現在のあり方を描くだけだとしたら、
いまさらそんなものを描いてもらわなくても、
私たちの想像の中でそれはもうわかってる問題だよ、
ということになってしまいます。
犬轢き殺し事件や、チョクソルの放つ野生の匂いにたいする
ファヨンの嘔吐などの場面もそうです。
イム・グォンテクが「上流夫人」になってしまったファヨンを、
変わってしまったファヨンの姿を描こうとしているのだとしたら、
あまにりにも安易な描き方に見えてしまいます。
それは彼女の生理的な好みの問題というか、
恣意的な問題にすぎないからです。
本質に到達しうる問題ではないんです。
そのことで鮮烈な記憶としてあるのは、
子ども時代におとなたちによく聞かされた話です。
「在日朝鮮人は豚と暮らしている。だから臭いんだ」という…。
私はその言葉に子供ながら強い異和を憶えました。
そんなことはたんに生活習俗の違いであって、
当たり前ですが、なに言ってんだよ、
だから日本人のほうが偉いってことにはまったくならないだろうと…。
イム・グォンテクがもし生活の「匂い」で現在の三人を
差別化しようとしているんだったら、かつてのそういう
日本人のおとなとたいして変わらないということになります。
上流、下流を問題にするのだとしたら、
もっと別の尺度を考えて描いてくれないと困るというか…(笑)。
そこで、これはもうちょっと深読みしないとだめだ、
この作品に感動するのはもっと何か違うものが隠されているからだ、
というふうに私は考えたわけです。
これは私の師である唐十郎がもっとも得意とするところですが、
思いきり「誤読」しないとわからない作品だと思ったんですね…。
で、ここに書いたような私なりの誤読をしたのですが、
その際参考になったのはこの作品と間を置かずに観た
「史上最大の戦場 洛東江大決戦」
「アベンコ特殊空挺部隊 奇襲大作戦」等でした。
これらの作品を観ると、イム・グォンテクは、
そう簡単には「離散した家族」の再会という涙の物語では
終わらせることができないだろうなあと思ったんですね。
ファヨンはそう簡単には行かない、行かせたくない…、
それがこの映画を象徴するかのような
あの「谷底」の見えない「道」のシーンなんだという
私なりの結論に至ったわけです…(笑)。
たしかにいかにもファヨンが上流婦人になってしまった、
かのように描いてるけど、そうじゃないのよ。
描いていない、見えない「谷底」を見てくれないとだめなんだよ…、
というイム・グォンテクの声を私が聴いたというか…(笑)。
といっても、私の解釈が正しいということではないんです。
てっせんさんの解釈のほうが正しいのかもしれません。
でも、そう見てしまうと
私にはこの作品はちょっと平凡な作品になってしまうし、
私が感動した理由にもならないんですね。
そうした場合、私は、私なりに誤読して
この作品にたいする感動をひとに伝えなくてはならなくなるわけです。
それが文を書くことだと思ってるので、この記事を書いたわけです…(笑)。
ものを書いたり、舞台を作ったりする人間はちょっとひねくれてる、
と見ていただいてもけっこうなんですが…(笑)。

●てっせんさん
面白いですねえ。同じ映画なのに私とてっせんさん、
観ているところがまったく違うし、感動するところが違うなんて…(笑)。
お断りしておきますと、私が安易と言っているのは、
下流・上流を「匂い」で描こうとしているのだとしたら、
演出としてとても安易だということです。
上流と下流の放つ「匂い」の相互齟齬…。
そういう描きかたをしていたら、
これまでの大方の表現を超えられないということです。
実際、階層の問題を「匂い」で描く作家が、
その後、それを超えて表現できた例はまずないと思います。
たいていそこで思考が止まってしまいます。
ないのは、そこに本質的な問題があるわけではないからだ、
恣意的な問題にすぎないからだ、と考えていいと思います。
実際、てっせんの解釈通りだとしたら、
そこには私はまったく感動しないんですね。
残念ながら通俗性を感じるだけです…。
でも、実際には、この作品は通俗性を超えています。
てっせんさんの解釈は失礼ながら、この作品の可視的な部分ですが、
作品には不可避的に、本人が意識できないところ、
つまり無意識が表出されます。イム・グォンテクの
その無意識が通俗性を超えさせているのだとおもうんですね。
そこをどう読むのか、というのが私の主眼になっているので、
違いが出てくるのかなという気がします…。
ちなみにKさんが
「キム・ジミさん演ずる女の心情はちょっと複雑過ぎて、
想像が及ばなかった」とおっしゃってます。
私はいい見方だなあ、これ見たひとの大方はそうじゃないかなあ、
と思っているのですが、複雑すぎて想像が及ばないのは、
「長年の間に変化を蒙ってきた体質や生理をもとに戻すのには
莫大なエネルギーを要して殆ど不可能だという悲痛な諦め」という
だけでは推し量れないものを感じた、ということなんじゃないでしょうか。
まあ、ご本人に聞いてみたいところですが…(笑)。

●てっせんさん
ええとですね。
イム・グォンテク 監督が例え「てっせん君の言う通りです。
そういうふうに私は撮ったんです」と言おうと、
「そうじゃない! 監督は、私が言ってるように撮りたかったんです。
監督自身、それに気づいてないんだあ!」
みたいな、無茶苦茶なことを私は言っているので、
今回はなかなか話が合わなかったのだと思います。
すいませんでした…(笑)。

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■101分 韓国 ドラマ

監督: イム・グォンテク
製作: パク・ジョンチャン
脚本: ソン・ギルハン
撮影: チョン・イルソン
音楽: キム・ジョンギル

出演
キム・ジミ
シン・ソンイル
ハン・ジイル
キム・ジヨン
チョン・ソムン

南北分断の悲劇を扱った代表作。イム・グォンテク監督(1936年生まれ)は「太白山脈」(94)とは違い、ここでは離散家族の悲劇をあぶりだすことに徹しており、いわばミクロの視点を通して大状況を語るという話法だ。とりわけ、1983年に放映されたKBSの家族探し番組のドキュメンタリー映像-荒い粒子のザラついた映像-が忘れがたい印象を残す。かつての恋人たちを演じたキム・ジミ、シン・ソンイルはともに韓国映画を60年代から支えてきた大スターである。
1983年夏。上流階級の美しい中年女性ファヨン(金芝美)は、朝鮮戦争で離散した家族を捜す韓国KBSテレビの公開番組を見ながら、深く悩んでいた。彼女はかつて愛し合った男の息子を生みながら、戦火の下で生き別れになったつらい過去があった。ファヨンは良識ある夫の理解を得て、思い切って“出会いの広場”を訪ねる。必死で家族を捜し求めるビラやプラカードが散乱し人々が渦巻く中で、彼女は思いがけず死んだとばかり思っていた昔の恋人ドンジン(申星一)と再会する。2人は忘れかけていた遠い過去の記憶に引き戻される。彼らはTVで見た息子らしい男の手掛かりを求めて懐かしい村・キルソドムへ向かった。貧しくすさんだ生活を送るソクチョル(韓支壹)を目の当たりにして、2人は血の騒ぐのを感じながらもただ戸惑うばかりだった。ソクチョルとその妻(金知瑛)も、2人の来訪に喜びと混乱をかくせない。ファヨンにもドンジンにも今の家族があり、今の生活があった。心の葛藤をどうすることもできず、彼らは結論を血液判定に委ねる。親子であることは、ほぼ間違いないという医師のことばに、ファヨンは100パーセントの確証がなければ受け入れられないと告げ、ドンジンとチョクソルの前から静かに去った。


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この記事へのコメント

k
2009年09月18日 14:07
山崎さん、現世は唐十郎さんで、来世は林権澤監督の弟子・・・もう、贅沢言い過ぎです!は・は・はっ。
いつだったか、あの家族探しの行われたKBS放送の大階段に立ってみたことがありますよ。映画を観た後でしたので、うーん、何と言うか平凡な言葉ですが、隔世の感がありました。朝鮮戦争停戦から30年後の記念番組、それからほぼ25年後にそこに立つ韓国大好きと浮かれる日本人のおんな。(あ、私のことです)ラストシーンの山の中の高速道、私はきっと戻るんだろうと思って観てましたよ。演出も、観客に戻ることを予想させながら撮ってましたよね。でも、そこで監督はあっさりと裏切りますね。ほんとにスパッと。
現代の作家だったら、あんなふうには終われないですね。過ぎ去った歳月と折り合いをつけないと、自分がきっと耐え切れない・・・。でも、林監督は断固として折り合わないのだと、そんなふうに思いました。
実を言うと、キム・ジミさん演ずる女の心情はちょっと複雑過ぎて、想像が及ばなかったのですが・・・。
あれから(映画公開から)25年が過ぎて、監督には自分達の道程がどんな風に見えていらっしゃるのか、折り合いはついたのかどうか、お聞きしたいですねぇ。監督の最新作100本目は、「千年鶴」という「西便制」の変則バージョンでした。101本目を待っているのですが・・・。


k
2009年09月19日 22:44
えーっとですね、これは隠してたんじゃなくて、ちょっと良いなと思って部屋に置いといた絵が、実は観る人が観れば名作だった…って事なんですよ。だから、気を鎮めて下さいね。
私には、こっちより先月にお届けした「祝祭」の方が解りやすかったものですから。「祝祭」は、面白くなかったですか~?
ツァイ監督と転移のお芝居の似ているところは、そのユーモア感覚なんですが、今思えば、あの古城のような台北の映画館と、中野光座が通じてたんですね。
イム監督と山崎さんの師弟関係(?)は、「西便制」では良く分からなかったけれど、こっちでは確かに思い当たるところが有りますよ。ふ、ふ、ふ…
「殺人の追憶」のポン・ジュノ監督が、イム・グォンテク監督の100本記念パーティーでお祝いを述べてらして、自分は高校生の時に「シバジ」(未見ですが、韓国に残っていた代理母の因習を描いたものなんだそうです)を、ちょっといやらしい映画だと思って観に行ったら、全く当てが外れてしまって…でもあの時の感動が自分を映画の道に向かわせたのだと語っていました。どうでしょうか、ポン・ジュノに遺伝子は引き継がれているでしょうか?
k
2009年09月19日 22:50
転位、です!劇団の名前を間違えるとは。トホホ…
てっせん
2009年10月01日 21:52
今晩は
ご心配おかけしまして、申し訳アリマセンでした。

多分、八十年代から九十年代にかけてが、長大なイム・グォンテク連峰の中でも、最高峰や名峰といっていい作品群が聳え立っている時代なんじゃないかと思います。もっともそれ以前の作品は、殆ど観る機会がありませんので、あくまであてずっぽうで言ってますが・・・(笑)
特に、1985年からの二年間で「キルソドム」「チケット」「シバジ」という三本の傑作を続けざまに撮っているのは、ただただ凄いなあと。これらはみな、十年以上も前にNHKで観た記憶がありますが・・・。
そして九十年代最後の作品として「娼」という、娼婦街に生き、そこを抜け出せない女の半生を描いた映画があるのですが、以前ビデオで観たとき、さらりとした描き方なのに衝撃的なシーンがありまして、自分が男であることが嫌になってしまう感情を憶えさせられてしまったほどです。これらも、ぜひ、DVDで発売してほしいですねえ。

さて、急遽借りてきて観なおした「キルソドム」について・・・山崎さんの御文章に乗っかった上で敢えてちょっと異論めいたことをば・・・(笑)

ファヨンは、やはり変わったんだと思います。確かに、彼女はもともとの「家族」を壊してしまった、戦争という巨大な暴力を「許して」はいないでしょう。ですが、その深い憤りと悲しみはそのままでも、今は裕福な生活を送っている彼女は、その体質や生理がどうしようもなく、変わりました・・・。
続く
てっせん
2009年10月01日 22:08
三人で車に乗っている途中、犬を轢いてしまうシーンがありましたが、ここは三人のそれぞれの現在のありようを象徴的に描いていると観ました。息子のチョクソルは血まみれの犬を車の中に入れようとしますが、ファヨンは嫌悪の表情もアラワに外に捨てるよう叫び、身勝手な上流夫人の振る舞いを見せてしまいます。一方、父のトンジンは可哀想にと呟くのみで、その無力さを際立たせますし、チョクソルは、栄養たっぷりの犬料理が食べられるのにと悔しがります。さらにチョクソルの家ででも、彼がベトナム戦争で散々殺しまくりやりまくったという話を食事中にするのを聞いているうちに、ファヨンは嘔吐してしまいます。戦火のときの孤児の匂い、あるいは兵士としての野生の匂いを今だに放つチョクソルに彼女は我慢ができなくなっています。

ここらへん、イム・グォンテクは彼女の変化を、きっちり描いているんじゃないでしょうか。ファヨンはもう昔の、戦火を生き抜いてきた彼女の体質ではなくなっている、体に沁み込んでしまった現在の裕福な生活そのものが、彼女に「息子」と認知させることをやめさせたんだと、説得的に描いているように思いました。あともどりはできない、こころの奥底では息子と認めても、自分の生理や体質がすっかり変わってしまい、いまさらこんな野獣の匂いを放つ男と親子として生き直すことは、今の自分には到底耐えられないという諦めが、彼女の悲しさの本質なのではないでしょうか。
そこらへんの人間の本質をきっちり描くところが、イム・グォンテクの映像作家としての、決して甘くはない厳しい目なんだろうなと感じたのですが・・・。

なお、岸惠子、萩原健一主演の傑作「約束」は、シン・ソンイル主演の「晩秋」のリメイクですが、韓国版のフィルムは信じられないことに、失われてしまって、幻の名画となっています。後年作られた韓国版リメイクを観ましたが、いい映画でした。
てっせん
2009年10月02日 22:33
・・・イム・グォンテクが「上流夫人」になってしまったファヨンを、変わってしまったファヨンの姿を描こうとしているのだとしたら、あまにりにも安易な描き方に見えてしまいます。
それは彼女の生理的な好みの問題というか、恣意的な問題にすぎないからです・・・

う~ん、変わってしまったファヨンを描くことが、安易なものなのかどうか・・・。実はこの部分が、もっとも私がファヨンに感情移入し、共感できたところなんですねえ。人間は年月とともにどうしようもなく変わってしまうもので、長年の間に変化を蒙ってきた体質や生理をもとに戻すのには莫大なエネルギーを要して殆ど不可能だという悲痛な諦め・・・。喩えて言えば、水門を閉じられてしまった諫早湾が、二度とその豊かな干潟をとりもどせないような・・・。
つまりファヨンの水門は、戦争によって閉じられてしまったのだと・・・。そしてこれは、彼女の「生理的な好みや恣意的」な問題とは言えないと思うんです。もうほんとに、体そのものが変えられてしまって、意志や願いでは既にどうにもならない段階にまできてしまっている。だからこそよりいっそう戦争が許せない、自分たちの本来あり得べき家族を壊してしまった連中が許せない、というファヨンの深い思いにつながるんではないでしょうか。イム・グォンテクは、ファヨン「一家」のそういう悲しさ=「見えない谷間」を捉えているんじゃないかなあと思ったのですが・・・。
どうも、しつこく食い下がって申し訳アリマセンでした。
以上は私なりの「誤読」でした・・・(笑)
てっせん
2009年10月04日 00:12
あっ
匂いでしたか・・・。私が「野獣の匂いを放つ」と書いてしまった部分にひっかかりを感じていらしたんですね、きっと。言い訳になりますが、これは文字通りの匂いではなく、現在の彼の生活ぶりをちょっと比喩的に安易に書いてしまったのです。そして私も、イム・グォンテクが匂いで階層の違いを表現しようとしたとは、かけらも思ってはいませんでしたし、そういう書き方はしていないつもりだったんですが・・・。私の「無意識」が出てしまったなんてこともないと思いますけれど・・・(笑)。

それから、ファヨンの内面が「複雑すぎて想像がおよばない」というのはまさにそうでしょうし、私も彼女のことがすべてわかったとは言い張るつもりもありません。ただ、監督がファヨンのある一面を意図的に表出していると思われる場合、まずそこは、そのとおりに受け取っていいのではないでしょうか。そして監督の無意識を感受したり、その領域にまで思いを馳せたりして映画を「誤読」するのも、まずは監督によって画面に描かれた表層の意図、うなわち可視的な部分を正確に読み取った上でのことではないのかなと思います・・・。ああ、そうすると自分の観かたが正確だと言い張ることになってしまいますねえ・・・。これは、どうも、いけません。なんだか、汗顔の至りになってしまいましたので、勝手ながら、このへんで撤退させていただきます。
失礼しました。

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