新藤兼人__監督

■新藤 兼人 しんどう かねと

1912年(明治45年)4月22日 - 2012年(平成24年)5月29日
日本の映画監督、脚本家。本名は新藤 兼登(読み方同じ)。
日本のインディペンデント映画の先駆者である。近代映画協会会長。

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映画界に入るまで

1912年(明治45年)、広島県佐伯郡石内村(現・広島市佐伯区五日市町)に生まれる。
兼人は広島市内から一山越えた農村で豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで破産し、14歳の頃に一家は離散。活動写真に惹かれ、山向こうの広島市内へ足繁く通い夜遅く提灯を下げて帰宅した。
1933年(昭和8年)、尾道の兄宅に居候中に見た山中貞雄の映画『盤嶽の一生』に感激し映画を志す。
この尾道時代に新藤は大林宣彦の実家の持ち家に住んでいたことがあり、大林は幼少期に新藤と映画を観たことがあるという。
1年半の自転車問屋の臨時雇いで金を貯め、刑事をしていた兄の紹介で京都府警の刑事の伝手を頼りに1934年(昭和9年)、京都へ出る。志望していた映画助監督への道は狭く、さらに1年ほどたった後、入ることが出来たのは新興キネマ現像部でフィルム乾燥の雑役から映画キャリアをスタートさせる。満州国が帝制に移行した年であった。目指す創造する世界とはかけ離れた、長靴を履きながらの辛い水仕事を1年ほどつとめる。撮影所の便所で落とし紙にされたシナリオを発見、初めて映画がシナリオから出来ているものと知る。

下積み時代

新興キネマ現像部の東京移転に同行し美術部門に潜り込む。
美術監督であり美術部長である水谷浩に師事。美術助手として美術デザインを担当した。
このおかげで、その後の近代映画協会の監督作品の多くでは、経費削減の意味もあって、自ら美術も担当することが多かった[要出典]。仲間からは酷評されても暇を見つけてシナリオを書き続け投稿し賞を得るが、映画化はされなかった。家が近所だった落合吉人が監督に昇進し、脚本部に推薦され『南進女性』で脚本家デビュー。

1941年(昭和16年)、溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年間京都に出向。溝口は俳優から演技を聞かれても「反射してください」というばかりで何も俳優に教えないため、他の俳優・スタッフ同様に新藤も反発していた。しかし出来上がった作品を見ると感銘を受けた。伝手を頼り溝口の内弟子になることになり、シナリオを1本書いて溝口に提出するが、「これはシナリオではありません、ストーリーです」と酷評され、自殺を考える程の大きなショックを受ける。スクリプターをしていた内妻の励ましで奮起し劇作集を読みあさり再出発を誓う。この内妻は結核に罹るが、貧しさのためろくに栄養をつけることができず死去。このことは後の初監督作品『愛妻物語』で描かれる。
1942年(昭和17年)、情報局の国民映画脚本の公募に応募、佳作に終わる。当選は東宝の助監督・黒澤明の『静かなり』であった。翌年『強風』が当選。これを知った溝口から連絡があり生涯ただ1度だけ祇園で御馳走にあずかる。
1944年(昭和19年)、所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され脚本部へ移籍。同年4月、脚本を1本も書かないうちに召集され二等兵として呉海兵団に入団。既に32歳ながら年下の上等兵の若者に扱き使われ、彼らの身の周りの世話をする。上官にはクズと呼ばれ、木の棒で気が遠くなる程叩かれ続けた。兵隊は叩けば叩くほど強くなると信じられていた時代だった。同期の若者は大半が前線に送られた。これらの事は、60年後に製作された『陸に上った軍艦』で描かれた。
1945年(昭和20年)、宝塚海軍航空隊所属にて第二次世界大戦終戦を迎える。

脚本家としてデビュー

宝塚歌劇団図書館にあった全ての「戯曲集」を読み終え松竹大船撮影所に復帰。1945年(昭和20年)年秋書いた『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され1947年(昭和22年)のキネマ旬報ベストテン4位となり初めて実力が認められた。溝口のために溝口の戦後第1作『女性の勝利』(1946年)と『わが恋は燃えぬ』(1949年)を書く。
1947年(昭和22年)に、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表。大ヒットしキネマ旬報ベストテン1位も獲得、シナリオライターとしての地位を固めた。 その後は吉村とのドル箱コンビで『わが生涯のかゞやける日』(1948年)などのヒット作を連発。木下惠介にも『結婚』、『お嬢さん乾杯!』を書く。
1949年(昭和24年)、『森の石松』の興行的失敗等で松竹首脳らが「新藤のシナリオは社会性が強くて暗い」とクレームをつけるに及び、自らの作家性を貫くため1950年(昭和25年)、松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立。

映画監督デビュー

1951年(昭和26年)、『愛妻物語』で39歳にして宿願の監督デビューを果たす。この自伝的な内容の脚本はどうしても他人にやらせたくなかったと告白している。この脚本を読んだ大映のスター乙羽信子がどうしても妻の役をやりたいと願い出てくる。乙羽は同作品に主演、これをきっかけに近代映画協会へ参加する。また大映に持ち込んだ『偽れる盛装』が1951年(昭和26年)の大ヒット映画となった。
1952年(昭和27年)、原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表。翌年の1953年(昭和28年)、カンヌ国際映画祭に出品。各国で物議を醸したが世界で反響を呼び、チェコ国際映画祭平和賞、英国フィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など多くの賞を受けた。一方私生活では新藤には妻子がいたものの、この頃より主演の乙羽と愛人関係になる。

以降は自作のシナリオを自らの資金繰りで監督する独立映画作家となり、劇団民藝の協力やカンパなどを得て数多くの作品を発表。しかし芸術性と商業性との矛盾に悩み失敗と試行錯誤を繰り返した。
この頃、同時期に日本映画に衰退の陰りが見え大きな映画会社の経営が困難になり始めた。しかし、産業としての映画の衰退は社会派映画や前衛芸術映画の躍進のチャンスでもあった。大映画会社による映画館の独占支配体制が緩み、小さな独立系プロの製作する映画にも上映の機会を得ることができるようになった。
1960年(昭和35年)に撮った台詞のない無言の映画詩『裸の島』は資金がなく、近代映画協会の解散記念作品にとキャスト2人・スタッフ11人で瀬戸内海ロケを敢行。撮影期間1ヶ月でこの映画をわずか500万円の予算で作り上げた。これにより、限られた観客を相手に、極端に低い製作費で優れた作品を撮ることが可能であることを示し、大会社の資本制約から離れる事で自由な映画表現と制作ができる事を証明した。作品はモスクワ国際映画祭でグランプリを獲り、新藤は世界の映画作家として認められた。
また、モスクワ国際映画祭の際には、各国の映画バイヤーから次々に買い入れの申し入れがあり、最終的に世界62ヶ国に作品の上映権を売ることで、それまでの借金を返済した。なお、『裸の島』の製作手法(オール地方ロケ。出演者及びスタッフがロケ地で合宿体制を組む。スタッフ全員参加のミーティングを行い、本来の持ち場を越えて意見を交換する。等)は、その後の邦画界におけるインディペンデント映画の製作に、多大な影響を与えた。

社会派作品を次々と発表

1960年代以降は放射能汚染を題材とした『第五福竜丸』、『さくら隊散る』、連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』、家庭内暴力に材を取った『絞殺』、死と不能をテーマにした『性の起源』、老いをテーマとした『午後の遺言状』など社会に問題提起を投げかける作品を発表。また「頼まれた仕事は断らない」を信条に、近代映画協会における自作の映画制作と平行し、大手映画会社の企画作品の脚本をも多数手がけた。中には映画史に残る名作、話題作や評価の低い作品も色々あるが、「優れた芸術家は多作である」という観点からいくと、これも特筆すべき才能といえる。前妻を亡くした後、1978年(昭和53年)に乙羽信子と再婚して、後も『落葉樹』や『濹東綺譚』を製作したが、『午後の遺言状』が乙羽との遺作となった。

評価の高い脚本作品に、川島雄三監督/『しとやかな獣』(1962年)、鈴木清順監督/『けんかえれじい』(1966年)、神山征二郎監督/『ハチ公物語』(1987年)などがある。娯楽怪作としては江戸川乱歩の原作をミュージカル仕立てにした『黒蜥蜴』(1962年)などがある。テレビドラマ、演劇作品も含めると手がけた脚本は370本にもおよび、多くの賞を受賞した。「ドラマも人生も、発端・葛藤・終結の3段階で構成される」というのが持論である。監督としては社会的テーマを強く打ち出した作品か文芸作品がほとんどであるが、脚本家としては娯楽色の濃い作品も多く、コメディやミステリーなどにも高い技術を発揮するアルチザン的側面も持つ。他の巨匠といわれる監督たちに比べ、他の監督に脚本を提供し、なおかつ高い評価を受ける仕事が圧倒的に多く、そちらに限定しても最高峰の脚本家である。その意味では両方の仕事をあわせた日本映画への貢献度ははかりしれない。

70年以上の映画人生で、世界最長老の映像作家のひとりである事で知られる。また池広一夫、神山征二郎、千葉茂樹、松井稔、金佑宣、田代廣孝、田渕久美子ら多くの門下生を出した。尚、近代映画協会は1960年代に100近く有った独立プロのうち唯一成功し現在も存続、映画作品を送り出している。
長年の映画製作に対して1996年(平成8年)に第14回川喜多賞、1997年(平成9年)に文化功労者、2002年(平成14年)に文化勲章を授与された。3度グランプリを受賞したモスクワ国際映画祭では、2003年(平成15年)に特別賞を受賞している。また、映画を通じて平和を訴え続けた功績により2005年(平成17年)に谷本清平和賞を受賞。「多くの傑作映画を世に送り出し、日本最高齢現役監督として映画「一枚のハガキ」を完成させた」として、2011年(平成23年)に第59回菊池寛賞を受賞。

1996年(平成8年)、日本のインディペンデント映画の先駆者である新藤の業績を讃え、独立プロ58社によって組織される日本映画製作者協会に所属する現役プロデューサーのみがその年度で最も優れた新人監督を選ぶ新藤兼人賞を新たに創設した。
2010年(平成22年)の時点で日本最高齢の現役映画監督であり、世界でもマノエル・ド・オリヴェイラに次ぐ位置にあったが、同年の第23回東京国際映画祭表彰式で『一枚のハガキ』を監督引退作とすることを公表したが、まだ作りたい気持ちも表した。晩年は、高齢で移動に車いすが欠かせなくなっていた。
2012年(平成24年)2月14日に東京都内で行われたブルーリボン賞の授賞式では新人賞を受賞した当時7歳の芦田愛菜との「92歳差のツーショット」で沸かせた。2ヵ月後の4月22日に、100歳を迎え、東京都内で誕生会が開かれ、集まった映画人を前に「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」と挨拶した。

逝去

2012年(平成24年)5月29日、老衰のため東京都港区の自宅で死去。100歳没。新藤の葬儀・告別式は2012年6月3日、多くの映画関係者や俳優などが参列する中、増上寺光摂殿で執り行われた。
2012年6月26日、日本政府は新藤が数々の作品を世に送り出した功績を讃え、多年に亘る映画界への貢献を評価して逝去日の5月29日を以て従三位に追叙する閣議決定を行った。


主な監督作品
1951年『愛妻物語』
1952年『原爆の子』
1953年『縮図』(原作:徳田秋声)
1954年『どぶ』
1955年『狼』
1956年『銀心中』(原作:田宮虎彦)
1957年『海の野郎ども』
1958年『悲しみは女だけに』
1959年 『第五福竜丸』 『花嫁さんは世界一』

1960年『裸の島』
1962年『人間』
1963年『母』
1964年『鬼婆』
1965年『悪党』
1966年『本能』
1967年『性の起原』
1968年『強虫女と弱虫男』
1968年『藪の中の黒猫』
1969年『かげろう』
1969年『触角』

1970年『裸の十九才』
1972年『鉄輪』
1972年『讃歌』
1973年『心』
1974年『わが道』
1975年『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』
1977年 『竹山ひとり旅』
1979年『絞殺』

1981年『北斎漫画』
1984年『地平線』
1986年『落葉樹』
1986年『ブラックボード』
1988年『さくら隊散る』
1992年『濹東綺譚』
1995年『午後の遺言状』
1999年『生きたい』

2000年『三文役者』
2003年『ふくろう』
2008年『石内尋常高等小学校 花は散れども』
2011年『一枚のハガキ』

主な脚本作品
1946年 『待ちぼうけの女』 / 監督:マキノ正博
『女性の勝利』 / 監督:溝口健二
1947年『安城家の舞踏会』 / 監督:吉村公三郎
1948年 『四人目の淑女』 / 監督:渋谷実
『幸福の限界』 / 監督:木村恵吾
『わが生涯のかゞやける日』 / 監督:吉村公三郎
1949年 『お嬢さん乾杯!』 / 監督:木下惠介
『森の石松』 / 監督:吉村公三郎
1950年『長崎の鐘』 / 監督:大庭秀雄  
1951年 『舞姫』(原作:川端康成) / 監督:成瀬巳喜男  
『上州鴉』 / 監督:冬島泰三  
『自由学校』 / 監督:吉村公三郎 
『偽れる盛装』 / 監督:吉村公三郎
『源氏物語』 / 監督:吉村公三郎
1952年『西陣の姉妹』 / 監督:吉村公三郎 
1953年 『夜明け前』(原作:島崎藤村) / 監督:吉村公三郎 
『女ひとり大地を行く』 / 監督:亀井文夫  
1954年『足摺岬』(原作:田宮虎彦) / 監督:吉村公三郎
1955年『美女と怪龍』 / 監督:吉村公三郎
1956年 『あやに愛しき』 / 監督:宇野重吉  
『赤穂浪士 天の巻・地の巻』(原作:大佛次郎) / 監督:松田定次
1957年 『美徳のよろめき』(原作:三島由紀夫) / 監督:中平康
『うなぎとり』 / 監督:木村荘十二
『地上』 / 監督:吉村公三郎
1958年 『夜の鼓』(原作:近松門左衛門、共同脚本:橋本忍) / 監督:今井正
『裸の太陽』(原作:氷室和敏) / 監督:家城巳代治
『氷壁』(原作:井上靖) / 監督:増村保造
『不敵な男』 / 監督:増村保造
1959年『からたち日記』 / 監督:五所平之助
1960年 『大いなる旅路』 / 監督:関川秀雄
『大いなる驀進』 / 監督:関川秀雄
『がんばれ!盤獄』 / 監督:松林宗恵
『路傍の石』 / 監督: 久松静児
1961年 『松川事件』(共同脚本:山形雄策) / 監督:山本薩夫
『献身』 / 監督: 田中重雄
『女の勲章』(原作:山崎豊子) / 監督:吉村公三郎
1962年 『しとやかな獣』 / 監督:川島雄三
『黒蜥蜴』(原作:江戸川乱歩、原作戯曲:三島由紀夫) / 監督:井上梅次
『鯨神』(原作:宇能鴻一郎) / 監督: 田中徳三
『斬る』(原作:柴田錬三郎) / 監督:三隅研次
『青べか物語』 / 監督:川島雄三
『爛(ただれ)』(原作:徳田秋声) / 監督:増村保造
1964年 『卍』(原作:谷崎潤一郎) / 監督:増村保造
『傷だらけの山河』(原作:石川達三) / 監督:山本薩夫
『駿河遊侠伝 賭場荒し』 / 監督:森一生
1966年 『こころの山脈』 / 監督:吉村公三郎
『座頭市海を渡る』 / 監督:池広一夫
『けんかえれじい』(原作:鈴木隆) / 監督:鈴木清順
『清作の妻』(原作:吉田絃二郎) / 監督:増村保造
『刺青』(原作:谷崎潤一郎) / 監督:増村保造
1967年 『華岡青洲の妻』(原作:有吉佐和子) / 監督:増村保造
『妻二人』(原作:パトリック・クエンティン「二人の妻をもつ男」) / 監督:増村保造
『限りある日を愛に生きて』 / 監督:田中重雄
1969年 『千羽鶴』(原作:川端康成) / 監督:増村保造
『鬼の棲む館』(原作:谷崎潤一郎) / 監督:三隅研次
1971年 『闇の中の魑魅魍魎』(原作:榎本滋民) / 監督:中平康
『激動の昭和史 沖縄決戦』 / 監督:岡本喜八
1972年 『軍旗はためく下に』(原作:結城昌治) / 監督:深作欣二
『混血児リカ』(原作:凡天太郎) / 監督:中平康
1975年『昭和枯れすすき』(原作:結城昌治) / 監督:野村芳太郎
1978年 『事件』(原作:大岡昇平) / 監督:野村芳太郎
『危険な関係』(原作:コデルロス・ド・ラクロ) / 監督:藤田敏八
1979年『配達されない三通の手紙』(原作:エラリー・クイーン) / 監督:野村芳太郎
1980年 『地震列島』(原作:グループ915) / 監督:大森健次郎
『遥かなる走路』 / 監督:佐藤純弥
1982年 『母の悲劇』 / 監督:松山善三
1983年 『積木くずし』 / 監督:斎藤光正
1984年 『黒い福音』(原作:松本清張) / 監督:増村保造
『ニュードキュメンタリードラマ"昭和" 松本清張事件にせまる』第1・12・19回 / 監督:森崎東、吉村公三郎、安作郎
1987年 『映画女優』 / 監督:市川崑
『ハチ公物語』 / 監督:神山征二郎
1992年『遠き落日』 / 監督:神山征二郎
1996年『宮澤賢治-その愛-』 / 監督:神山征二郎
1999年 『おもちゃ』 / 監督:深作欣二
『完全なる飼育』(原作:松田美智子) / 監督:和田勉
2001年『大河の一滴』(原作・原案:五木寛之) / 監督:神山征二郎
2007年『陸に上った軍艦』 / 監督:山本保博 証言も
2008年『HACHI 約束の犬』(「ハチ公物語」のリメイク) / 監督:ラッセ・ハルストレム

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