アリラン (2011) 韓国

[920]ギドクよ、喋るな、失語しろ、絵を描け、言葉では何も伝えられない!
★★★★☆☆

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ようやく「アリラン」を観ることができた。
そして…、そこには予想通り、混迷する私のギドクがいた。

作品以外のことについては、
余程のことがない限り関心がないし、
また関心を持つ余裕もないので知らなかったが、

ギドクは、
2008年の「非夢」を最後に表舞台から姿を消し、
山里で隠遁生活同様の暮らしを送っていたという。

「アリラン」はいわば、
その3年間の生活の中で撮られたギドクの自己対話を
ドキュメント映画ふうに仕立てた作品。

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ギドクが暮らしていた山小屋。

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小屋から見下ろした里。

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小屋の中はワンルームで、
中には小さなテントと、大きなストーブが…。

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流しはあるが、風呂もトイレも見当たらない。

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トイレはすべて外ですませ、

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ストーブの巻き割りをし、

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冬には雪でメシを炊き、

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ラーメンをすすり、

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自家製のエスプレッソマシーンでコーヒーを飲み、

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生き物の気配といえば、飼っている猫と、自分の息だけ。

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そんな暮らしぶりで、

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カカトはひび割れ、血も滲み出している。

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ほかにやることもさしてなく、

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たまに好きな機械いじりをして、
出来上がったものと言えばエスプレッソコーヒーマシーン4台だけ。
オレに1台くれえ~!

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あとはただひたすらテントの中へひきこもる…。

外界との接触を絶ったこの暮らしぶりをみていると、
「魚と寝る女」や「春夏秋冬そして春」「弓」などを思い出し、
キム・ギドクが帰ってきたかな、
と一瞬期待を抱くのだが、

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もうひとりのキム・ギドクや、

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影のキム・キドクが現われ、

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生身のギドクがかれらに喋り、

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そしてそれを監督キム・ギドクが編集しはじめたとたん、
私は、私のキム・ギドクがいまだ深い混迷に陥っていると
思わざるをえないのである(笑)。

じつに単純なことで、この作品には、
かつてキム・ギドクの作品が垣間見せてくれたあの衝撃は
どこにもないのだ。

本人は…、

自分の暮らしを撮っているうちに面白くなって、
無性に映画が撮りたくなって、ああしたいこうしたいと、
次第に「映画」仕立てにしていった。
自分で自分のことをやはり映画監督なんだなと思った。
退屈しない映画にはなっているはずだ。

みたいなことを語っているが、
正直退屈だし、構成も、語っていることもひどく陳腐だ
と言わざるをえない(笑)。

ちょうど観たばかりの「プンサンケ」がそうだったように。

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ギドクは、ここで
「非夢」の撮影でイ・ナヨンを殺してしまいそうになり、
ショックで、以後撮れなくなったと語っている。
が、それはうそだと思う。

撮影事故で強いショックを受けたのは事実だろうが、
「春夏秋冬そして春」以降、つまり「陸」に上がりはじめたころから
だんだん撮れなくなっていったのである。

そして「非夢」でその無残さが晒けだされてしまった。
結果、混迷に陥った、と私は思っている。

その理由は、
外側から見ている私からするとはっきりしている。

「春夏秋冬そして春」まで、
ギドクは徹底的にひきこもり、現実を遮断してきた。
自分の世界にひきこもり、自分の世界だけを描いてきた。

そのため
否応なく現実に晒されている私たちの前に、
かれの作品は形容しがたいほどの衝迫力をもって
立ち現れたのである。

「春夏秋冬そして春」以降も、
原則的にはその姿勢を貫こうとはしている。
その姿勢の中で生まれたのが「うつせみ」「弓」「ブレス」だが、

一方では、
現実に向かって徐々に自分の世界を開きはじめている。
「サマリア」「絶対の愛」、
そして脚本だけて書いて弟子監督に撮らせた
「映画は映画だ」「ビューティフル」「プンサンケ」などがそうだ。

一言でいうと、
自分の書く物語を現実が持つ主題のほうへと開いた、
現実的な主題のほうへと沿わせていったのである。

このことは映像にもはっきりと影を落としている。

ギドク映画の最大の魅力は「絵」であった。
1コマ、1コマをまるで絵を描くかのように丹念に仕上げ、
積み重ね、そこに異なる世界を作り上げていることだった。

が、「サマリア」の流れの作品では、
その作業を怠り、ひたすら物語構成の独自さで
映画を作ろうとしてきている。

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はやい話が、
ギドクらしい「絵」(映像)がどんどんなくなっていったのである。
ギドクの絵が、現実の都市の風景や、風俗的な、
あるいはごく通俗的な風景に侵食されてしまったのである。

そのことをギドク本人も、図らずもこの作品で告白している。

ギドクがここで語っている大半は、
現実にたいする恨みつらみであり、愚痴である。
狭義には、自分の弟子で、のちに離れていった監督や製作者、
あるいは悪役で名を成していった俳優にたいする…。

その弟子監督や製作者、あるいは俳優が離れていったのは、
ギドク風に言えば「腐った資本主義」=映画産業に、
金や名声に身を売ったからだということになる。

まったくその通りだろうと私も思う。

が、ギドク自身、
その腐った資本主義に、映画産業に
寝首をかかれないほど近づいてしまっていたことも否めない。

自作はまだしも、
弟子監督に書いて撮らせた
「映画は映画だ」「ビューティフル」「プンサンケ」などは、
映画産業のもとに作られた韓国映画と少しも変わらないのである。

ギドクは、かれらにたいする、
あるいは「腐った資本主義」にたいする恨みつらみを
朝鮮文化における「恨」に折り重ね、
「アリラン」を歌い、
自ら涙したあと、

自作の銃を携えて山を下り、かれらを殺害し、
最後、自らに銃を向けるというストーリーになっているのだが、

ギドクの熱狂的ファンの私にすれば、
おいおい、ギドクさん、監督さん…、と、やはり苦笑せざるをえない。

それこそ
「腐った資本主義」の作り出す物語そのものであり、
前作「プンサンケ」や、
ギドクがボロクソに言ったあの「グエムル - 漢江の怪物」と
たいして変わり映えしないからだ。

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ちなみにギドクは、
この映画上映のために来日したときこう言っている。

 今、映画産業が大企業化していると思います。
 韓国ではメジャーな会社を通さなければ上映出来ないという状況があります。
 日本も似た状況かと思います。

 メジャーな会社が素晴らしい映画を作れば問題ないのですが、
 ハリウッドリメイクのような作品が多いように思います。
 大企業では基本、お金を稼がなくてはいけないという理論があるので、
 そういうことになるのだと思います。

 でもそのような状況下では、90年代の
 イ・チャンドン監督、ホン・サンス監督、キム・ジウン監督、
 パク・チャヌク監督、ポン・ジュノ監督のような
 韓国ニューウェーブの監督たちは生まれてこなくなってしまいます。

 行定勲監督と今回の来日でお会いしましたが、
 日本でも原作がある作品ばかりで、
 オリジナル作品の制作が難しくなっているとおっしゃっていました。
 世界的に同じ状況になっていて、とても残念。

 映画は社会になんらかの影響を与えられるものだと私は今も信じています。
 今までお金ではなく、心、精神を込めて映画を作ってきました。
 韓国、日本、世界の監督が同じ気持ちを持ち続けて欲しいと願っています。

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なんだ、この「アリラン」で言いたいことは
全部ちゃんと喋ってるじゃないかと私は思う。

まあ、私の言いたいことは、
そんなことは喋って言えばわかることなんだから
そんなことをわざわざこの映画の中で喋ったりやったりするなよ、
ということなのである。

言葉がないとひとは伝えられない。
が、言葉ではなにも伝えらないことも事実である。

言葉では伝えられないその何かを表現するために
ひとは絵を描いたり映画を撮ったり音楽をやったりするのである。

ギドクは、それをやってきた監督なはずである。
言葉を喋らない、セリフのない監督だったはずである。
映画をちゃんと絵として、映像として創ってきた
じつに稀有な監督だったはずである。

にもかかわらず「プンサンケ」ですでに言ったように、
いまやセリフ(散文)や、物語で映画を撮ろうとする監督に堕している。
私は泣くよ。

どんな言葉も、どんな物語も、
それが発せられた瞬間にすでに真実ではなくなるということは、
ものを書く人間はもう誰でも知っていることなはずなのに。

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と嘆いてるからといって、
この作品のすべてがだめだと言っているわけではない。
喋らなければけっこういいのである(笑)。
ギドクがちゃんとギドクをしているのである。

観ればわかる。
上に紹介した4人のギドクが登場するまでの
スチールを見てもわかる。

自分でカメラを覗きながら撮れるわけではないので
完璧とまではいかないが、どうだ、いい写真(絵)だろう!
いかんせん本人が全然そのことをわかっていないので、
そのことは絶叫してでもみんなで言わないといけない。

この作品をギドク映画足らしめたかったら、
一切、無言を通すことだ。喋らないことだ。

なにも喋らず、ただ山小屋で暮らす日々の細々を
カメラで描写していけばいいのだ、ギドク自身の目で。

目は信じるに足りる。
そのことは家庭カメラを撮るものでもちゃんと知っている。
同じものを撮っても、撮るひとによって違ってくるからだ。

同じものを同じ角度で同じに撮ったつもりでも、
まったく違ってしまうのである。

撮った絵はけしてマス・イメージ(資本主義)には晒されない、
そのひと自身を表わすのである。

編集し直してみるといい、ギドクよ。

ひたすら120分
なにも喋らないギドクと、ギドクの暮らしと、
日々の細々をつないで閉じられた自分の世界をつくり、

そして死にたければ、あるいは殺したければ、
最後に一発ズドンと撃ち、はい、おしまい。

と、他随を許さぬキム・ギドクの世界が出来上がる
と私は思うよ。
なんなら私が編集しようか(笑)。

ついでに言っておけば、
撮れないなら別に撮れなくたっていいじゃないか。

それもまた映画。

それでキム・ギドクの評価が下がるわけでもないぜ、
少なくともおいらの中では…。

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このポスター、ちょうだい。


■91分 韓国 ドキュメンタリー
監督: キム・ギドク
製作: キム・ギドク
脚本: キム・ギドク
撮影: キム・ギドク
美術: キム・ギドク
音響: キム・ギドク
出演
キム・ギドク

世界三大映画祭を制覇した鬼才キム・ギドクが放つ究極の「自問自答(セルフ)」ドキュメンタリー。
寒い真冬,孤独な小屋にこんがらかった頭のキム・ギドクが一人で淋しく暮らしている。トイレもない小屋に雪でご飯を炊いて,誰も訪ねてこない所で誰かを待っている。
ある日,誰かを待つキム・ギドクにお客さんが訪ねてくる。もう一人のキム・ギドク。キム・ギドクは,もう一人のキム・ギドクに質問を受けながら,自分が処した状況と映画に対して真剣に話をする。
また別の日には,自分の影。影のキム・ギドクが訪ねてきて,小屋に住むキム・ギドクに質問をする。影に自分が自然に関する考えと色々なものを影と話をする。
そのような姿を映画外で見るまた別のキム・ギドク。8人のキム・ギドクは,自分と話または,そのような自分を見て笑うまた別のキム・ギドク,そんな姿と話をするまた別のキム・ギドクまたは,カメラを見て話をするまた別のキム・ギドクと話をする。
また別のキム・ギドクは,自分の手でコーヒーマシンを作って怒りに充ちた姿でフォークレーンで土地を打つ。
カメラを見て話をするキム・ギドク。彼は,観客たちに自分の映画に対するのどの渇きを純粋な顔で話をする。瞬間怒りに充ちたキム・ギドクは,自分自身の手で銃を作り始める
ドリルで銃を削るキム・ギドク。銃を完成した後,暗い夜に修理を怒鳴ってどこかに行く。
運転しながら喉がかれるように呼ぶキム・ギドクの絶叫のアリラン。各々三ヶ所へ向かうキム・ギドクそしてそこで流れ出る銃弾音。自分の小屋に戻ったキム・ギドクは,最後に自分に向かって銃の引き金を引く。
流れ出るキム・ギドクのアリラン。キム・ギドクの歌とともに,その間作ったキム・ギドクの映画ポスターが続けて見える。そしてまた復活するキム・ギドク。

 

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