ギー藤田監督「THE LOST RUMBLER」(1990)_1 日本

[1074]赫奕たる逆光の誕生と喪失をもとに描かれた輝かしい映像の誕生と死、あるいは停滞



(「後編」はこのページの末尾に掲載してあります)



素晴らしい映画があった。
「神の技」としか称しようのない映画が。
1990年に創られたギー藤田監督の
「THE LOST RUMBLER 赫奕たる逆光」である。

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作品は前篇、後編の二部構成である。
前篇、14分27秒、モノクロ。
後編、13分38秒、カラー。
モノクロ映像からカラー映像へのこの転換に
この作品の謎あるいは核心を解く鍵がありそうだ。

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始まりはこうである。

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田園の稲穂が風で波を打っている。
まだ穂をつける前なので単に生草の方がいいのか。
実際、モノクロ映像なのでイネ(稲)とも見分けがたい。
そこへ波の音、小鳥の声が被さってくる。
風で波打つ生草の光景がそのまま海原の光景に重ねられているのだろう。

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その田園の全景が現れる。
真っ白な作業着に野球帽のようなものを被った男が
田んぼに置かれた小さな食卓の前に座し、
いかにも満ち足りた様子でひとり何かを食している。
男の背中のほうでは風向計が時に激しくまわっている。
波の音はいつのまにか悠久を奏でるかのような音楽へと変わっている。

音楽を担当した藤井達生氏のコメントによれば、
この風向計は「モクラーズ」といい、モグラ除けのものだという。
プロペラの回転音を地中に伝え、
農作物にモグラを近づけないようにしている代物なのだそうだ。

作品タイトルの「THE LOST RUMBLER」とは直訳すれば
「失われた回転ドラム」というほどの意味だろうが、
作品上はこの風向計「モクラーズ」のことを指していると思われる。
そのことはまた後に触れる。

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風のやってくる方向(画面右)から男二人が自転車を押し現れる。
田園をわが家にひとり食している奇妙なモダニズム野郎に声をかけると、
男は食卓のビンを手に何か一言返す。
私の推測に間違いなければこの素晴らしきモダニズム野郎は、
「ごらんの通り私はいま朝食を摂ってる」と答えたのである(笑)。
男二人はなにやら風の来る後方上空に目をやった後、
畦道を左のほうへと消えていく。

時間にしてまだわずか2分10秒。

この冒頭のシーンに触れただけで私は言いようのない衝撃と、
なにかしら途方もない幸福感とに包まれた。
タイトルを借りていえば、
映画の世界を覆い尽す「赫奕たる逆光」を目の当たりにし、
その赫奕たる逆光にわが身をすっぽりと包まれたかのような。

私は禁を犯した。
慌てて映像を止め、もう一度冒頭から観たのである。
二度、三度…。

そして言葉を探し、すぐに「創世記」に行きあたった。
ここで映像化されている赫奕たる逆光について語るには
「創世記」が一番いいと思ったのだ。

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ」
こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ば れた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である。

神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。
そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

神は言われた。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」
そのようになった。
神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。
神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。「地草を芽生えさせよ。
種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」
そのようになった。
地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、
それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた。
夕べがあり、朝があった。第三の日である…。

神はそうやって言葉によってこの世界を作り上げた。6日間をかけて。
そうして7日目に休息をとった。
というのが誰もが知っている「創世記」物語である。

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もう一度冒頭の田園風景に目を移そう。

①⇒②⇒③と進行していくに従って、「光」は微細な光に…、
幾層もの光と影とに、無限の光と影とに分解された。
そして真っ黒なズボンと真っ白なシャツを纏った自転車二人組の登場によって、田園の風景は光と影の結晶体として、
形象としてこの世界にその全貌(輪郭)を現わした…、と読みとれるのである。

つまりは、世界が創造された。誕生した。「光」によって。
観る者が立ち会う目の前の光が「赫奕として」見えるのはまさにそのためなのだ。そのためだと言うしかない。

われらがモダニズム野郎が至福の時を味わうかのように
田園(世界)にあって朝食を摂っているのも
その赫奕たる光によってわが身とこの世界が誕生したからであり、
そしていまなおその赫奕たる光をわが身が浴びていることを知っているからだ。
おそらくそれ以外にない。

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この4枚は次の、2つ目のシーンである。

画面は突然黒くなり、意味をなさない機械的な擬音が流れる。
その真っ黒な世界に、闇の世界にかすかに光が差し込んでくる。
ゆっくりと稲穂が現れる。ここでは稲穂とわかる。
風に揺れるその稲穂の向こうに、
白煙を噴き出している何とも知れぬ工場が姿を見せはじめ、
やがてその全景が白日のもとに姿を現わす。

前シーンが「光」の側からこの世界の誕生を描いたものだとすれば、
続くこのシーンは「闇」の側からこの世界の誕生を描いたものだと言える。
つまりこの二つは表裏になっている訳だ。
そして前シーンで自然が、後シーンで人工物が光景の主体になっているのは、
自然であれ人工物(都市)であれこの世の一切は
光と影の結晶体であり、光と影の形象であることを再確認するためだ
と私には思われる。

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3シーン目、画面はまた黒くなり、波の音が入って来る。
と、世にもエキゾチックなセクシー美男がプールでひとり、
冒頭のモダニズム野郎にもまして至福の時を味わうかのように泳いでいる。

先に断っておくとこの映画の素晴らしさは
私がここに載せている画像では何ひとつ伝えられない。
大半の映画は画像(写真)でおよそのことは伝えられるが、
この映画に限りそれはできないのである。
この映画はまさに「映像」=時間そのものを主題にしているからだ。
このシーンで言えば、この男が泳ぐことで生じる波紋を、
水の光の揺らめきそのものを映像化することを目的にしているからだ。
赫奕たる逆光そのものを映像化することを…。

そしてその赫奕たる逆光をもたらすものが一体何なのか、
このシーンではより明確に、そしてより鮮烈に描かれている。
それは「手」である。この男が水を掻く「手」…。
その手が水を掻くたびに水にうねりが、波紋が生じる。
言いかえると、光が幾層もの光と影とに分解され、
分解されることで光は「赫奕たる」性質を獲得していくのである。

ギー藤田監督は冒頭で、
光を赫奕たるものにしているチカラ「風」だとしているのだが、
その風を生みだすものは実はこの男の手なのだと言える。
この男の手こそまさに「創世記」の中で語られる「神の霊」なのだ。

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われらが美貌のエキゾチック男はプールから上がり、
こうやってプール脇に置かれている真っ白な浴槽に横たわる。
それもサングラスをかけているものだから私はつい、
あ、おれのA・ドロンだ、「太陽がいっぱい」だと快哉を上げてしまったよ(笑)。

けして故ない連想ではない。
日陰者として生まれ日陰者として生きてきたトム(A・ドロン)は、
完全犯罪をなしおえた(と思った)時はじめて
全身に浴びる太陽の光を「赫奕たる逆光」として浴びることができた。
その時はじめて彼を取り囲む世界の一切が
赫奕たる逆光を浴びた形象として彼の前に現れたのである。
言いかえると、トムがトムとしてこの世界に誕生した。
だから彼は思わず言葉を発したのだ、「太陽がいっぱいだ。最高だ」と。

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(1956年 31歳ころ)

と当時に私の中で蘇ったもうひとりの青年がいる。
「仮面の告白」を書いた若き日の三島由紀夫である。

当時24歳、三島は書いた。
私は生まれた時の光景を憶えていた。
午後9時に生まれたにもかかわらず、
産湯の盥のふちに射していた日の光を私は見ていた…、と。

エキゾチック男がサングラスをかけて浴槽に身を横たえ日を浴びる姿、
そしてプールで赫奕たる光を浴びながら泳ぐ姿を見て、
これは「仮面の告白」のその誕生のシーンをイメージして映像化されたのではないかと咄嗟に思ったのである。
冒頭とそれに続くシーンが
いわばこの世界の誕生そのものを描いたものだとすれば、
この3シーン目はまさに「個体」がこの世に誕生したシーンを描いたもの
ではないかと。

私は三島が書いた産湯の金盥の記憶を妄想や虚構だと思っていない。
たぶん事実だろうと信じている。
胎児が闇の世界からこの世に誕生した瞬間、
誕生したばかりの赤子にはたとえ午後9時の薄暗い光であろうと、
赫奕とした「日の光」のように眩しいのではないかと思っているからだ。
ちょうど死にゆく人間には…、
つまり瞳孔が完全に開ききろうとしている人間には、
たとえ午後9時の薄暗い光であろうと、
世界は一面の眩しい日の光の世界のように感じられるだろう
と私が想像しているのと同じように。

つまり人間はこの世界に誕生した時、
この世界そのものが誕生した瞬間を固体として追体験している。
ギー藤田監督はこの3シーン目でそれを…、
固体が体験する赫奕たる逆光の初めての体験を映像化しているのではないか
と私は考えた訳だ。

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このあとプール脇の浴槽に身を横たえた男のもとへ、
これまたひどくエキゾチックな謎の美女が箱を手に階段下から現れ、
男のからだに箱の中のものを降り注ぎ、
そうしてそれを手で慈しむかのようにかき混ぜる。

「それ」は誰の目にも明らかに数千個のパチンコ玉に見えるが、
しかしバチンコ玉ではない。水、あるいは産湯であり、
男は彼女が注ぎ込んだその水あるいは産湯の中にからだを浸すのである。
より正確に言えば、
浴槽に注ぎ込まれ、女の「手」によって撹拌されることによって
パチンコ玉という「ブツ(物)」あるいは形象がまたたく間に
ただ幾層もの光と影とに分解されたのである。
言いかえると、分解されることでこの世界の始まりの段階である
「大空」と「水」へと退行したのだ(「創世記」)。

そしてこのシーン以降はいわばこれまでの繰り返しである。
いわば確認と創造。

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女は自分が光と影とによって形作られた形象であることを確認する。

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そしてその赫奕たる光の寄って来たる方向を見やる。
あるいは探す。この世界を世界足らしめている「光」の源を。

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光と影の形象である木の葉。
画像でそれを見ることはできないが、
光とは絶えない風の揺らぎである。時間であり、「生」そのものなのである。

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光と影の形象である水の中の石造。
光とはまさに「逆光」である。
この世界の一切は逆光を浴びることではじめてその姿形を、
形象を私たちの前に表わすのだから。

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羊水に浮かぶ胎児、あるいは産湯に浸る新生児。

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水を掻く手。あるいは光を幾層もの光と影とに分解する神の霊(神の手)。
この手は実は、冒頭、
モダニズム野郎の後方で風の来る方向を指し示していた
あの風向計「モクラーズ」の原型であることが読み取れる。

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水の中の形象としての男、赫奕たる逆光を浴びる男。
あるいは世界の始まりである「大空」と「水」。
大空は水を映し出し、水は大空を映し出している。
光と影、大空と水、あるいは男と女。
「創世記」がそうであったように「対」としての世界の始まり。

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水の中で生まれはじめた草木。

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水の世界から分離、誕生した「陸」(「創世記」)。
その陸の中の森。
女は赫奕たる逆光の寄って来たる向こうへと姿を消す。

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長い長い幾時間が流れ、女は男のいた浴槽に帰ってくる。
そうして赫奕たる光を浴びながら電話をする。

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男もプールで赫奕たる光にわが身を包み込まれているが、

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いつしかそのプールは夜に支配される。
つまり人間は自然の光を模写して人工的な光を作りだしたのである。
その作りだされた光の中で男は泳ぐ。
このあたりから前半の後半シーンが展開されていく。

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この世界の一切は光と影の形象であることを理解し、
人間が作りだした人工的形象の集約としての「都市」。
そして人工的な光。

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幾千年、幾万年の時は流れ、あの美貌を誇ったエキゾチックな青年も
いまやこうしてすっかり人間臭いおじさんと堕した(笑)。
パチンコ玉を光と影に、つまり水へと分解する手のチカラも失い、
浴槽に水道水を足して誤魔化している始末である(笑)。

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人工の光によって自らの形象を曝け出し、
他者に認識させようと一生懸命努力をする三人の若者たち(笑)。

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女も美貌こそ保ってはいるが、
あのエキゾチックなあるいは神格的な面影はすでにない。

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人工物を、都市を日夜再生産しつづける工場。

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作りだされた人工の光の雨。

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人工的に作りだされた壁と部屋。
その壁には人間たちの手によって自然の形象(動物)を模写して作られた
第二次形象とも言うべき動物たちの像。
そしてなにやら「物語」らしきものを生きはじめた男とその部下。

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にしても驚くべきことに人間たちが作りだしたものはまだなかなか捨てがたい。
ごらんのように人工的な光は赫奕たる逆光の片鱗をまだ見事に
押し留めているからだ(笑)。


※この項「2」へ続く



この記事へのコメント

雪うさぎ
2015年02月04日 11:36
山崎哲様 ギー藤田氏を取り上げて頂きましたこと、たいへん嬉しく存じます。昨秋、ギー氏はご自身のブログに、山崎様のfb訪問が心の灯であるとお書きになっていました。私も、氏と同じ思いで 拝読させていただいています。ギー氏の学生時代を少しばかり存じておりますが、当時にぶれるこてのない生き方をなさっていることに 感銘を受けます。

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