「THE LOST RUMBLER」(1990)_2 日本

[1074]赫奕たる逆光の誕生と喪失をもとに描かれた輝かしい映像の誕生と死、あるいは停滞


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人工的な光と影による形象。

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人工的な光と影による形象。自然の光と影をも交えた…。

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人工的な光と影による形象。
この何とも知れぬ形象を男が覗き込んでいるのはあるいは、
このブツ(物)が人工的な光を光と影とに解体する「モクラーズ」の一種だからか?

ギー藤田監督があたかも名付けられることを一切拒否するかのように
次々と繰り出すシロモノと映像に私はゾクゾクと魅入られ、
そして魅入られれば魅入られるほどなにくそと言葉へ駆られる(笑)。
つたなさを覚悟してでも言語化しなければ、と思ってしまうのだ。
心あるものは間違いなくこの作品に感動するだろうが、
それでも何事かを言葉にしなければこの作品も忘れられてしまうことを
私は多少なりとも知っているつもりだからだ。

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白昼。
世界の始まりである、あの赫奕たる逆光はまた戻ってくる。

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白昼。
男たちはその赫奕たる逆光を浴する。

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白昼。
赫奕たる逆光に魅入られ、その光の寄って来たる方向を求め、

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彼らは車を走らせる。ただひたすらに。

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車の引き起こすこの風が
光をさらに赫奕たるものへ導くと思い込んでいるかのように。
おお、素晴らしきこのダンディズム野郎どもめと私の心は躍る(笑)。

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光は山へ沈み、夜の帳が下りる。
世界は闇に閉ざされ、そうしてまた世界の始まりへと戻っていく。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ」 こうして、光があった。
と光が誕生する、この世界の始まりへと。この作品の冒頭へと。
愛しきダンディズム野郎どもに
その「時」を見せてやろうとでもするかのように…。

ここまでがこの作品の前半である。

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結局はひとつ事の繰り返しに過ぎないのだが、この前半についてもう少し言っておこう。

私はこの映像を、この世界の始まりと、
個体の歴史の始まりとをひとつ事として表現したものとして捉えてきたが、
同時にこの作品は映像自身の始まりを表現したものだと考えている。

私たちは20世紀(正確には19世紀末)に入り初めて人工的な「光」を手に入れた。
偉大なるエジソンおじさん、リュミエール兄弟、本当にありがとう。(^^♪

光を手に入れるとは同時に対としてある影(闇)を手にいれることだが、
人工的なこの光と影とを手に入れることで私たちは初めて
この世の一切は光と影による形象であることを証明してみせた。
それがつまりは映像の、映画の始まりな訳だが、
この作品はその映画のはじまりそのものを表現してみせているのである。

そのことはすでに紹介してきたように、
この作品が俗にいう物語ではなく、徹底して
「赫奕たる逆光」そのものを映像化しようとしていることから、
同じことだが、この世界の一切は光と影による形象であることを映像化しようとしていることからも了解できる。

そして私がここに表現された「赫奕たる逆光」を、
どこか既知のものとして、あるいは途方もなく懐かしいものとして感じたのは、
この作品がそうした「映画の始まり」そのものを描いていたからだというほかはない。

ついでながら私のごく個人的な映画体験を少し話しておこう。

私は三島由紀夫と違い、産湯の金盥の記憶もなければ、
幼少期の記憶もまるでない。
記憶が始まるのはせいぜい小学低学年頃からである。
おそらく三島と違い、私が幼少期にたいして家族的な疵を負わずに生きてこられたからだろう。

ただひとつ、例外がある。
映画である。おそらく3、4歳の頃だと思うのだが、
わが家の庭で母親の膝の上で映画を観ていた記憶がいくつか断片的に、
しかもいまなお鮮烈に残っているのだ。

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写真は後年のものだが、わが家のこの庭で父はよく映画を上映していた。
昭和20年代から30年代初めにかけてだが、いわゆる巡回映画ではない。
父が映写機を回していたからだが、
その映画を私は母親の膝の上で村人たちと一緒によく観ていたのである。

観たものはすべてモノクロの映画。
作品名を憶えているものもあるが
それはたぶん3、4歳の頃ではなく10歳前後になってから観たものの記憶だろう。

初めの記憶はただ時に風に吹かれているスクリーンに映し出された光と影である。
光と影が作りだす地形、家屋、人間等の形象。
そしていまでも時々映画の中にもよく映し出されるお馴染の光景だが、
映写機からスクリーンへ一直線に向かう光の束と、
なぜかその光の中を漂ううっすらとした白煙。

そうしたいわば私の始まりとしての映画体験は、
そう言ってよければ私の人生の何事かをほぼ決定したと自覚しているが、
「赫奕たる逆光」が終始画面に溢れるこの作品を観ていると、
私のその映画体験の始まりから現在までの記憶がすべてひっぱり出されてきて、
私は途方もない「懐かしさ」で一杯になるのである。

それは言いかえると、
私はこれまで数万本もの映画を観てきたが、
劇映画を観たくて映画を観てきたというより、
いつも映画の始まりに立ち返りたくて映画を観てきたことを表わしているのだと思う。

日本映画の父・牧野省三は、
「スジ(物語)、ヌケ(映像)、動作(俳優)」を映画の三大原則とした。
そして実際、大半の映画はその三原則のもとに映画を作ってきたのだろうが、
たとえそうした映画を観たとしても私が映画のその奥に観てきたもの、
あるいは観ようとしてきたものは、映画の核としてある光と影=「ヌケ(映像)」そのものだったということである。

光と影が作りだす形象、つまりはこの世の始まり。
いつもそれを観たくて私は映画を観てきた。

ギー監督のこの「THE LOST RUMBLER」は、
いわばそうしたスジ、動作を可能な限り排し、
「ヌケ(映像)」ひとつで映画を映画足らしめている実に稀有な作品で、
私が言いようのない衝撃を受けたのも、
そして途方もない「懐かしさ(幸福感)」に包まれたのもまさにそれ故だったと言っておこう。

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