「THE LOST RUMBLER」(1990)_3 日本

[1074]赫奕たる逆光の誕生と喪失をもとに描かれた輝かしい映像の誕生と死、あるいは停滞



(「THE LOST RUMBLER」後半)


はじめに記したように後半はカラーである。

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前半の冒頭同様、
作物が風に揺れ、鮮やかな陽光の揺らぎを生みだしている。

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その緑豊かな山間の田園風景の中へ深紅のオープンカーが現れる。
このオープンカーが前半ラストのあのオープンカーだとしたら、
男たちは光と影だけのモノクロの世界から、色鮮やかなカラーの世界へ、
映像の歴史で言えば「総天然色」の世界へ突入したことを表わしている。

カラーの世界とは、個体の歴史で言えば、
母親が世界のすべてだった乳幼児の前に、母親以外のモノが、
「第三項」が現れた段階だと言える。

その第三項が一体何なのか乳幼児は母親(養育者)に言葉で教えられる。
もう少し言えばその第三項を母親とともに言葉で名付け、
その第三項を母親(養育者)とともに共有していく訳だが、
この時、その第三項が帯びる色彩をも名付けていくのだ。
そうやってたぶんひとはこの世界の色彩を獲得していく。
あるいはこの世界を色彩ある世界として構築していくのだと考えられる。

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山間の田園にある家屋も美しい陽光を浴びている。

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畑の中に、前半の冒頭に現れた
白い作業着に野球帽のようなものを被ったあのモダニズム野郎がいる。
そばではあの風向計「モクラーズ」のプロペラが回っている。
男は風の来たる方向を少し仰ぎ見た後、足元の地面に目を落とす。

音楽を担当した藤井達生氏のコメントに、
この風向計はモグラ除けのもので、プロペラの回転音を地中に伝え、
農作物にモグラを近づけないようにしているとあったが、
それに従えば男はプロペラの回転音が
しかと地中に伝えられているかどうか確認しているのだと思われる。

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道路の向こうにセールスマン風の男が現れる。
男は作物畑にいるモダニズム野郎に近づき、
風向計「モクラーズ」をちょっと覗くのだが、
何だ、何やってんだこいつといった感じでさほど関心も抱かず立ち去る。

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そうして目的の家屋に近づくと、もう一度作物畑の男に目をやり、
それからまた少し首をひねり画面の外へと消える。
そう言ってよければこの男はわれらがモダニズム野郎と違い、
降り注ぐ陽光にも、そしてその陽光を赫奕たるものにする風にもすでに
関心を失っているのである。
世界の始まり、あるいは人間の誕生に関する関心を。

そうした男の前ではすでに田園風景は鮮やかな色彩さえ失い、
何もかもが緩い。底なしに緩い。
こいつ殺してやろかと私に殺意を抱かせるほどに(笑)。

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突然、一面の稲穂が風に揺れる田園の中へ、
あの深紅のオープンカーが現れたかと思うと、
轟音とともに猛然とスピードをあげて走り始める。

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轟音は滑走路を走る飛行機の爆音のようなものから、
線路を走行する列車音のようなものへと変わる。

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そしてその轟音はさらに美しい音色の音楽へ。

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と、やがてわれらが深紅のオープンカーは真っ白な土煙を残し、
画面から消えていく。

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このシーンの演出と映像は本当に美しい。
胸が締め付けられるほどに美しく、火のように美しい。
易々とはお目にかかれない美しさだ。

その美しさが生まれるのは、一面の緑の風景の中に
ポツリと配置された鮮やかな深紅色(車)のせいである。
この深紅色は緑の配色の中にあって極めて「異質」だが、
異質なものをその田園風景の中にポツリと配置することによって、
ある意味凡庸な田園の風景を一気に「赫奕たる」風景へと
ギー監督は変容してみせているのだ。

そうしてその赫奕たる風景は、
車が生みだした白い土煙によって仕上げられる。
いや、土煙ではない。
それは車の風(大地への震動)によって生み出された真っ新な「光」である。
カラーの世界に戻ってきたモノクロ映像世界の、
この世界の始まりを告げたあの「光」…。

私はギー藤田監督の手腕に畏怖すら覚える。

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だがその光は束の間の幻影だったかのように消える。
「神の手」だった深紅のオープンカーが
狭い日本でたちまち行き止まってしまったからだ(笑)。
救いは異質さを留めることによって凡庸な田園風景をまだ
赫奕たる風景足らしめていることか。(^^♪

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しかしそれもほんの束の間、
狭い日本を脱しようとした途端溝に嵌り、無様さだけを曝け出す。
すでに凡庸な田園風景さえ壊してしまったのだ。(^^♪
私は思い出し笑いをする。こいつはまったく
どうでもいい糞芝居をやって映像をぶち壊す役者どもと同じだわい、と(笑)。

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あの凡庸極まりないセールスマン風の男が
名誉挽回とばかりに一人二役の役を得て溝へ下り、
大地を大震動で揺るがした車の車輪に異変でもあったのかと調べはじめる。

底なしに凡庸なその男に向かって私は声を荒げる。
アホ、車輪じゃない、足元を見ろ。水だ。溝を大量の水で満たせ。
そして村中のありったけの手を集めてその水を掻き乱すのだ、と(笑)。
だがこの男はどうやらすでに聴覚まで失ってしまっているらしい。(^^♪

言い添えておくと、私は
こうしたギー監督の作りだす情けなさ(笑い)が狂おしいほどに好きである。

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突然画面はクロ(闇)に還り、波の音が聞こえてくる。

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そして風に波打つ稲穂が画面一杯に現れる。
その稲穂は激しく揺れることでそこに絶え間ない光と影の波を作りだす。
見えない「神の手」によって海原に光と影が作りだされる。

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前半の冒頭シーンを再現するかのように。
あるいは後半部分の仕切り直しをするかのように。

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朝、あるいは真昼の赫奕たる陽光の中、
われらのモダニズム野郎が自転車で稲穂の揺れる海原へと向かう。

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このモダニズム野郎の素晴らしいところは、
現れることで凡庸な田園風景を赫奕たる風景へと変容させてしまうところだ。
あの深紅のオープンカー同様に。
そう。この男もまたこの日本的な田園風景の中にあって「異質」なのだ。
その異質さが凡庸な田園風景を赫奕たる風景へと押し上げているのだ。

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男が異質であるのはもちろん身に纏うこの異装のせいである。
この男はそう言ってよければ、
異装することで自分の肉体を特権化し、自分の肉体を特権化することで
陽光溢れるこの田園風景自体を特権化しようとしているのである。

実は音楽担当の藤井達生氏もこの男と同様の手法を用いている。
ギー監督が差し出してきた映像にたいして決して音を同化させない。
反対に映像を異化するかのような音を意図的に作りだしてみせている。
そうすることでギー監督が差し出してきた映像を
「赫奕たる」ものにしようとしているのだ。
言いかえるとそうすることで映像との間に緊張関係を作りだそうとしているのだ。

そこに藤井達生氏の類稀なる才能を見出さずにはおれないが、
それができたのも元を正せば藤井氏の
映像の意図を読み取るチカラのなせる業なのだと思う。

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われらがモダニズム野郎は前半の冒頭シーン同様、
稲穂が風に揺らぐ田園に背負ってきたちゃぶ台を置き、
そのちゃぶ台の前で朝食を摂りはじめる。
一日の始まりであり、世界の始まりである陽光に浴しながら。
男の背後では冒頭同様、いや冒頭と寸分も違うことなく
風向計「モクラーズ」のプロペラが回り、風の寄って来たる方向を指し示している。

音も冒頭同様、鳥の声、波の音が被さり、
やがて波の音(風の音)は悠久を奏でるかのようなあの音楽へと変わる。

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その田園の遠くへ作品の冒頭に登場したあの男二人が自転車で登場し、
田園の中にひとりの風変わりな男を発見する。

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と、冒頭同様、男たちはこの風変わりなモダニズム野郎に近づき、
何事か言葉を交わしてもいいはずなのに、
今度は男に近づくこともなくそのまま立ち消える。
一体何故なのか。

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愛しきモダニズム野郎は誰もがそうするように、
食を終えると歯を磨き、こうやって口の中を濯ぐ。
男は溢れる陽光をいかにも気持ちよさげに満喫しているかのようだが、
彼にしてみればおそらくこれは一日の始まりにたいする、
世界の始まりにたいする厳粛な儀式なのである(笑)。

ところで風に揺れる稲穂が現れてからこのシーンが終わるので、
つまり前半冒頭に相当するこのシーンは約5分30秒ほどである。
前半シロクロ映像では約2分10秒だった訳だが、
約2.5倍の時間を費やされていることになる。

なぜそうもこのシーンに時間が費やされたのか。
考えられる理由はたぶん二つである。
ひとつは、男がここへ至る経緯を物語化したからである。
そしてもうひとつは、
一見赫奕たる風景に見えるこの風景は、あるいは陽光は
実は少しも「赫奕たる」ものではないことを明らかにするためである。

実際、観ていても、前半シロクロの場合だと
このまま何時間でもこのシーンを続けてほしいと思うほどだったが、
あのシーンに比べると非常に「緩い」のである。
あらゆる映像は物語化した途端緩くなる宿命を負っているが、
理由はたぶんそれだけではない。
そのことは後に述べる。

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男は稲穂の揺れる田園を離れ、
作物が根付いている大地に目を落とし、なにやら調べはじめる。

男も気づいたのである。わが身を包む陽光の異常に。
いや、この後半冒頭すでに男は気づいていたと言うべきだろう。
「赫奕たる逆光」を追い求めて
この田園へやってきたあの深紅のオープカーに乗っていた男たち同様、
たとえどんなに陽光が赫奕たるものに見えようと、
その赫奕たる陽光は決して
世界の始まりであるあの「赫奕たる逆光」ではないことに。
あの赫奕たる逆光がこの世界ではすでに失われていることに。

いや、この男だけではない。
自転車に乗って現れた二人の男も実は気づいたのである。
男のいる風景に赫奕たる陽光は溢れているかもしれないが、
その陽光は決して赫奕たる逆光ではないことに。

二人は風変わりな男の姿を目には止めたが、
そこに赫奕たる逆光を見た訳ではないから
いつかのように思わず足を止めて近づくことをしなかっただけである。

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オープンカーに乗っていた男たちはそのことに気づき、
より一層強い風を起こせば、
同じことだが、作物の根付く地中に大震動を伝えれば
いつか遠い日のあの赫奕たる逆光が戻ってくるのではないかと
車を疾走させた訳だが、

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われらがモダニズム野郎もまたそう考えた。
この大地に、地中にもっと大きな震動を伝え、
より強い風を起こさなければと。そうしないと
あの身が焦げるほどの灼熱は赫奕たる逆光は戻ってこないと。
そう思い男はその「神の手」を探しはじめる。

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そして愛しいほどに愚かなわれらがモダニズム野郎は、
偶然にして幸いにもその神の手を発見する。
より巨大な風向計「モクラーズ」を。(^^♪


※この項続く

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