「THE LOST RUMBLER」(1990)_4 日本

[1074]赫奕たる逆光の誕生と喪失をもとに描かれた輝かしい映像の誕生と死、あるいは停滞


画像

男は大きな「モクラーズ」を手にし、プロペラを点検する。
男の顔に確信の色はない。
だがいまはこれしかない。

画像

われらがモダニズム野郎はその巨大な風向計を大地に突き刺す。
「モクラーズ」のプロペラは激しく回る。
この神の手はその震動を大地に伝えることができたのか。
震動は地中を揺るがし風を引き起こすことができたのか。
赫奕たるあの逆光はこの世界に再び戻ってきたのか。

画像

それとも「神の手」はすでに失われたのか。

画像

あのオープンカーに乗っていた(と思われる)男も確かめようとしている。
ミラーに反射する光をしきりに覗くことで、そのことを。

画像

だが覗いたミラーの底に映るのは
人間が作りだした人工的形象の集約としての工場(都市)ばかりである。

画像

あるいはカラーに染まった夜の工場。
あるいは日夜「カラーフイルム」を生産し続ける工場…。

画像

映画を観終えた私はこう思う。

赫奕たる逆光は失われたのだ、と。
無限の層としてあった光と影とが豊かな色彩(カラー)へと解体されたために。
ギー藤田監督はそのことを明らかにするために、
前半をモノクロで描き、後半をカラー(総天然色)で描いたみせたのではないか、と。

画像
画像

これは前半冒頭、稲穂が風に揺らめき光と影が誕生するシーンである。
「創世記」の言葉を借りていえば、
神の霊(神の手)が闇に閉ざされた稲穂の面を動いて光を、
つまりは光と影とを誕生させている訳だ。

そしてその光と影が、
つまりは生命が赫奕たるものと感じられるのは、
その生命に実は「死」が刻み込まれているからである。
死と表裏一体になっている生。
「死」から生まれ、死と対をなし、対をなすことでしかありえない生。

画像

その意味では光と影とはまさに生と死を表わしている。
生と死との揺るぎない「緊張」関係を。
その「緊張」が実は光と影とを赫奕たるものにしているものの正体だ
と言いかえてもいいだろう。

これもまた繰り返しになるが、モノクロ映像に、
モノクロ映画に私たちが無限の「懐かしさ」を覚えるのはそのせいだ。
私たちがその生と死との緊張を知っているからだ。
私たちの身体がその始まりにおいてその緊張を体験したからだ。

いつ?
言うまでもなく母親の胎内からこの世界へと出生した時である。

画像

ウィルヘルム・ライヒは人間の出生について母親による子殺しだ、
「胎児の死」だと言った。
エラ呼吸から肺呼吸へという途方もない環界の変化を考えると
私もそう捉えていいと思っているが、
その意味で言うと、出生とはつまるところ胎児の「死からの帰還」である。
新生児としての、新しい生命としてのこの世への帰還。
あるいは誕生。

それが産声として表現される訳だが、
その生と死の相克(緊張)を私たちの身体(無意識)は知っている。
憶えている。
まだ赫奕たる光と影の世界でしかなかった自分の始まりを。
あるいは世界の始まりを。
それがシロクロ映像に、シロクロ映画に
無限の親近感と懐かしさを感じさせる理由なのだと私は考える。

しかしその映像がカラーになった途端事態は一変した。

画像
画像

これは上の映像がカラーに変換された映像とみなすことができる。
まだモノクロだった光と影の層が色彩へと解体されたのである。

注意を促されると誰もが、
わが目が鮮やかな色彩のほうへと奪われてしまい、
モノクロで観ていた時の光と影を見失っていることに気づくだろう。
モノクロで観ていた時のあの赫奕たる逆光を見失っていることに。

あるいは確かに映像の色彩に目を奪われはするが、
しかし映像がいかにも「緩い」ことに。
モノクロ時に漂っていた心地よい緊張が失われて、なんだかひどく緩くなっていることに。

その緩さは一言でいえば、光と影がカラーへと解体された瞬間、
「死」が遙か後景へと追いやられてしまったことに起因している。
言いかえると、世界が生(色彩)の方へとすっかり傾いてしまったせいである。

モノクロ映画時代、
優れた作品を撮っていた作家たちは当然そのことに気づいた。
カラーフイルムは世界の始まりである光と影の世界を壊してしまうことに。
光と影との、生と死との緊張を奪ってしまうことに。
だからカラー(総天然色)映画を撮ることにひどく抵抗を感じた訳だ。

だが時勢の流れでカラー映画を撮らなければならなくなった時、
作家たちは手段を講じえなくなった。
その手段とは一言でいえば、牧野省三が言う「スジ(物語)」において
死を描くこと、あるいは極めて緊張度の高いドラマを作りだすことである。

「スジ(物語)」を原則とするようになったのは
物語を作り、その物語を生きることでしか人間は「生」を生きられないからだが、
そう言ってよければ作家たちはそのことを利用し、
生の裏面に貼りついている死を積極的に描いたり、
あるいは物語に緊張度の高いドラマを持ち込むことで、
カラー映画のもたらす危機を堪えようとしたのだと私は考えている。

画像

ギー監督はこの作品でいわばその映像論を試みたのである。
それが前半をモノクロで、そして後半をカラーで撮ってみせた理由である。
モノクロは赫奕たる逆光をかくも映像化することができるが、
カラーになるとすでにどのような意味でもその赫奕たる逆光は失われしまうことを
明らかにするために。

前半、極力物語を排していたのに、
後半になると少し物語を導入しはじめたのもそのせいだと考える。
ギー監督自身がどれほど意識し、意図していたかはともかく、
無意識が、あるいは監督の衝動がそう構成しているのだと言ってもいい。
そのことを明らかにするために私はこの評を書いてきたのだとも言える。
作り手の無意識を明らかにするために。
観て、語る側の責任として。

画像

ギー藤田監督の自作にたいするコメントに触れることでとりあえず締め括ろう。

「緩慢というより冗漫、冗漫というより怠慢、なんとも耐え難い間延び、
久しぶりにみてガキの作ったエチュードの域を出ない恥作ですね。
前半はまあまあ頑張ったのに後半どうしてこんなことになっちまったのか?
田中やよいさんがご指摘されている「切り返し」がないからなのでしょうか?」

監督のこの自己批評に私は思わず大笑いしてしまったが、
前半に比較して後半が「耐え難い間延び」をしてしまったのは、
言うまでもなくギー監督のせいではなくカラーフイルムのせいである(笑)。
作り手がどんなに頑張ってみたところで、
せいぜいこの上の画像のシーンくらいなものなのである。(^^♪
繰り返すが、カラーフイルムが赫奕たる逆光を奪ってしまうからだ。

そして言い添えておくと、
後半・カラー映像に否応なく生じる「間延び」が
前半・モノクロ映像の「緊張」度を証明するように作用している訳だ。
実際、後半を観終えると誰もがたぶん
あの赫奕たる逆光を求めてすぐにまた前半冒頭へ引き返したくなるはずだ。
はやい話、ギー監督の術に私たちはまんまと嵌められてしまうのだ。(^^♪

画像

ただ一点、後半の「間延び」「緩さ」について言っておきたいことがある。
もしこの後半を監督自身が緩い、緊張度を上げたいと思っていたのだとしたら
手はたぶん幾らでもあったと思う。
誰もがよくやるように出来事として死を持ち込んだり、緊張度の高い出来事を
起こしたりと。

だがギー監督はそうしなかった。
その手を用いずに「耐え難い間延び」もへったくれもないだろうと思うが(笑)、
そうしなかったのはおそらく監督自身がその手法に強い異和を感じているからだ
と思う。

小品「代引き」を観てもそう思うのだが、
カラー映画が始まった途端、映画は嫌になるほどそれを量産し続けてきたからだ。
そして果てしなく大量再生産されてきたその物語作りが
結局は映画自身の首を締め、映画を死に、あるいは停滞に陥れた元凶だと
考えられるからである。

私の想像に間違いなければ、
ギー監督はそのことにほとほとうんざりしているのである。
人生にそんなドラマは要らない。
そんなドラマなどなくたって人は生きていけるのだ。映画は創れるのだと。

後半、たしかに映像は「緩い」のだが、
その意味ではギー監督自身が
そこに「緩いドラマ」を意図的に持ち込もうとしているせいでもあるのだと思う。

映像としての緊張は欲しい。「緩い」映像には我慢がならない。
光と影の、生と死の緊張を失った映像には。
だが物語の緊張は要らない。そんなドラマは糞だ。
そんなものはただ商品化された人生の物語にすぎない。
人生は緩くていいのだ。映画の物語も緩くていいのだ。
限りなく緩い物語。緩いのになぜか赫奕たる光と影に満ちた物語。

ギー監督自身の中にそうした衝動があるため、
後半部分は観ようによっては何とも不思議な「緩さ」が生じてしまったのではないかと
私は思っている。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック