太陽はひとりぼっち (1962) イタリア

[1077]アントニオーニは愛の不毛を描いたのではない。核の恐怖によってもたらされた人間の実存の危機を描いたのだ。

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初めて観たM・アントニオーニの作品。
1962年、高1の時。16歳。
橘デパートの裏のほうにあった洋画専門の映画館。

え、知らないの、橘デパートの裏の映画館!
つうても誰も知る訳ないよな、半世紀前の九州のド田舎の映画館。(^^♪
当時は「日本のハワイ」「新婚旅行のメッカ」だったんだけどなあ(笑)。


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女が婚約者の男と話し合っている。
長い、重苦しい沈黙。二言、三言話してはまた沈黙。

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男は別れる理由を聞く。女は答える、「わからない」と。
「もう愛していないのか」「わからない」…。

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エキセントリックでかくも美しきモニカ・ヴィッティ。
私の人生の踏み外しはこの映画で彼女に出会ったことから始まった。
と言ってもいいかもな、いまにして思うと。(^^♪

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女は鏡に映った自分の顔に苛立ち、窓へ行きカーテンを引く。

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突然、スクリーンいっぱいに部屋の外の「風景」が広がる。
50数年経ったいまでも、この時の衝撃を私ははっきりと憶えている。
まるでトラウマであるかのように。(^^♪
ついでだが、この時を超える映像ショック体験はいまだにしていない。

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なぜそんなに途方もない衝撃を受けたのか。
密室が一気に外へ開かれたからなのか。
やや異様に見える展望塔(給水塔)のせいなのか。(^^♪

当時はむろん言葉などさっぱり見つからなかったが、
茫漠と広がるこの無人の街の風景がたぶん、
この女・ヴィットリアの心の風景をそのまま表しているかのように
見えたからだろう。言葉にするとひどく陳腐だが、
それをとりあえず「孤独」あるいは「孤絶」と名付けてみる。

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女は男に別れを告げ部屋を出る。
途中、なぜかしきりに周囲に目をやる。
とりたててこれといった何かがある訳ではないのだが、
それはたぶん周囲の風景が
まるで見慣れない風景であるかのように見えているからだ。
あるいは自分の孤独、孤絶を表わしているかのように。

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ヴィットリアは部屋で着替えをすますとすぐに証券取引所へ行く。
母親に会い婚約者と別れたことを報告するためだが、それだけではない。
証券取引所の醸しだす凄まじい喧騒の中に身を置きたかったのだ。
自分の孤独を逃れようと。

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素人投資家の母(左端)は話を聞くどころではない。
相場を張っているからだ。
ヴィットリアは株式仲買所に勤めている青年ピエロ(アラン・ドロン)と
挨拶を交わす。

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母が世話になっている青年で、顔見知りである。

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ヴィットリアは女友達アニタのアパートでふざけてみる。
どうだ、可愛いだろう、おらがモニカ・ヴィッティ。(^^♪

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アニタの夫の飛行機に乗り、上空からローマを眺め下ろしてみる。
が、少しも孤独は癒されない。
しかしやっぱり最高の映画だよなあ。
こうやってモニカ・ヴィッティだけ眺めてればいいんだもん。(^^♪

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ある日、東西冷戦の極度の緊張のもと株価が大暴落し、
ヴィットリアの母親は投資資産のすべてを失い、借金まで背負い込む。

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ヴィットリアは巨額の金を一瞬にして失った中年男の後を追う。
彼女がこの男の後を追ってみるのは、この男同様、
ある日突然、何の前触れもなく、ヴィットリアの心が一瞬にして
破産したからだ。瓦解した…。
だから破産したこの男がどうするか見てみたかったのだ。

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男はカフェ・テラスに腰を下ろし、ただ紙に草花の絵を描いた。
自分をいま取り囲んでいるはずの現実と何の関係もない花々を。

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顧客を膨大な損失に追い込んだピエロもショックを受ける。
馴染みの女で慰みを得ようとするが、
会わないうちに女が変わっていて、全然気に喰わない。(^^♪

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ピエロはヴィットリアのアパートを訪ねる。
二人は急接近していく。

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これはピエロがヴィットリアの愛を得るために支払った代償。
意味がわからん? 観ると誰でもすぐにわかるよ。(^^♪

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二人は街を歩く。
公園を。ビルの谷間を。市場を。

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そうしてピエロのオフィスで愛しあう。

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ピエロは郊外に建っている建物を見て言う、
「外国にいるみたいだ」と。

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ヴィットリアも言う、「あなたといるとそんな気がする」と。
「君がわからない。婚約者とは理解しあっていたのか?」
「深く愛しているなら理解しあえるものよ」
「じゃ僕たち理解しあえるかな」
「わからないわ」

ピエロは苛立つ。
「わからないばかりだ。なら、どうして僕と会うんだ」
ヴィットリアは答える。
「あなたのことをもっと愛したくて」

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二人はまたピエロのオフィスで愛しあう。

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帰宅する時間が来た。

二人は激しく抱き合い、誓いあう。
「明日会おう」「…(頷く)」
「明日も、あさっても」「次の日も、その次も」
「その次も」「今夜も」「8時に、いつもの場所で」

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そう誓いあいながら二人はなぜか極度な不安に晒されている。

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玄関を辞してオフィス・ビルの階段を下りるヴィットリアの足が止まる。

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ピエロの方も、仕事に戻ろうと思いデスクに座るのだが、
いつしか不安が増殖し、固まる。

引用した解説にあるように、
「新しくはじまった今日のどこが、旧いすぎさった昨日と違うのか」
わからないからか? 昨日と何も変わらないからか?
私は唖然茫然となる。
だって恐ろしいほどトンチンカンな解釈なんだもん(笑)。

そういう言い方をするなら、
ピエロの中で昨日までとすっかり何かが変わってしまったからだ。
そう言ってよければ彼もヴィットリア同様、自分が破産=瓦解した。
そのことに気づいて動けなくなってしまったのだ。

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ヴィットリアは通りに出て街路樹を仰いでみる。
たったいまピエロと愛し合ってきたばかりなのに、
生まれ育ったローマの街の街路樹が見知らぬ「外国」のように見える。
自分の不安が少しも消えていないことを知るのである。

以下、ピエロとヴィットリアは画面から消え、
二人がきょう通り過ぎてきた街の風景だけが映し出されていく。
まるで「外国」の、異なる風景のように。
もっと言えば、核戦争後の廃墟、あるいは無人の街であるかのように。

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この作品は「情事」 (1960)、「夜」 (1961年)とともに
アニトニオーニの「愛の不毛三部作」として語られることが多い。
誰がそんな言い方を始めたのか全然知らないのだが、
私は「フン、何が愛の不毛三部作だ。阿保か」と嘲笑っている(笑)。

アントニオーニは1954年、妻レティツィアに
「わたし、もうあなたを愛してないの」と去られた経歴の持ち主である。(^^♪
結果、愛の不信に陥り、以後しばらくそれをモチーフに作品を撮る。

ここでは婚約者リカルドに一方的に別れを告げるヴィッティに
その元妻レティツィアの面影を見ることができるが(笑)、
この作品はけして愛の不可能性、あるいは私の言う関係の不可能性を
主題にしている訳ではない。
そう観るひとは、この作品の字面(表面)しか読んでいないひとである。

サイトを回るとみんな愛の不毛を描いてると書いてるが、盲目追従は最悪。
それだけはやっちゃだめなんだって。(^^♪

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ヴィットリアは迫りくる核戦争の恐怖の前で自己が解体してしまったのだ。
実存の恐怖に晒されてしまい、それまでの自分が、それまでの日常が
壊れてしまったのだ。

結果、自分が婚約者リカルドを愛しているのかどうか、
自分でもよく分からなくなってしまったのである。
彼女自身が「わからない」と言っているように。

彼女は率直に自分の気持ちを言っているに過ぎないのだが、
相手の婚約者は彼女が自己解体しているとはつゆ思わないから、
もう僕を愛していなのだろうとか、ほかに男でもできたんだろうとか、
そういうふうにしか受け取れないのだ(笑)。

実際にそうした言葉を投げつけている訳ではないが、
ヴィットリアにすれば自分の心を理解してもらえないから
別れるしかなくなってくる訳だ。

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少し言いかえると、実存の恐怖に晒されてしまっているために、
見知っていた婚約者リカルドがまるで見知らぬ男のように思えて
別れを切り出したのである。

その意味ではピエロだって彼女にすれば同じである。
証券取引所で度々顔を合わせているし、
いまさっき彼のオフィスで抱き合ってきたばかりなのに、外へ出るともう
彼が見知らぬ男のように、「外国」のように思えてしまうのである。

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彼女が婚約者リカルドの部屋を出た途端、
あるいはラスト、ピエロのオフィス・ビルを出た途端、
街の風景に目をやり不安を垣間見せるのも
彼女が実存の恐怖に晒されてしまっているからだ。

結果、それまで見慣れていた町の風景がまるで
見知らぬ街の風景のように、外国の風景のように見えてしまうのである。

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風景に対する、あるいは他人に対するこの異和は、
裏を返すと実は彼女自身の自分に対する異和である。
残念ながらアントニオーニがそこまで理解をしてこの作品を撮ってるようには
思えないのだが、

彼女の中には、
昨日までと何かがすっかり違ってしまった自分に対する異和があって、
その異和感が転倒して街の風景や、他人に対する異和として表れている
と言うべきなのである。少し分析学的に言うと。

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はじめに私が窓の外に突然現れたこの少し異様とも思えるこの風景が、
女・ヴィットリアの心の風景をそのまま表しているかのように見えた
というのもそのことを表わしている。
本当はもっとなんでないごく普通の街の風景なのかもしれないのだが、
アントニオーニが、この女に見える異なる風景として
わざとスクリーンに映し出してみせているのである。

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しかしこの映画が恐ろしいのはラストシーンにおいて、
街の人たちみんながヴィットリア同様、
見慣れたローマの街を「異なる風景」として見はじめていることである。

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この男も、

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この女も住みなれた街の風景に異和を感じ、恐怖している。
ヴィットリアと同じように不安に陥っている。
そしてそれは何故なのかが最後に明らかにされる。
途中、証券取引所でも暗示はされていたのだが…。

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「各国 核の競い合い」

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「かりそめの平和」

バスから降りてきた男の読んでいる新聞の見出しが
こうやって大きく映し出されるのだ。

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ヴィットリアとピエロが最後、激しく抱き合い、
「明日会おう」「…(頷く)」
明日も、あさっても」「次の日も、その次も」
「その次も」「今夜も」「8時に、いつもの場所で」と誓い合うのも、
互いの愛を確認しあっているからでもなければ、
愛の不毛などといったバカげた妄想に怯えているからでもない。

いつ何時核戦争が勃発し、
明日や明後日や次の日が来なくなるかもしれないという
極度の不安に怯えているからなのである。

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原題「L' ECLISSE」=「蝕」。
蝕まれた太陽あるい月。核によって蝕まれた地球。

この作品のこうした主題は言うまでもなく、
1964年の次作「赤い砂漠」でアントニオーニとモニカ・ヴィッティによって
見事なまでの完成をみた。(^^♪


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しかしなあ、モニカはアントニオーニにプロポーズまでされながら、
どうして最後まで結婚しなかったのかなあ。
ちょっと知りたいよなあ(^^♪

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■124分 イタリア/フランス ドラマ/ロマンス
監督: ミケランジェロ・アントニオーニ
脚本: ミケランジェロ・アントニオーニ
トニーノ・グエッラ エリオ・バルトリーニ
撮影: ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ
音楽: ジョヴァンニ・フスコ
出演
アラン・ドロン
モニカ・ヴィッティ
フランシスコ・ラバル

ヴィットリア(モニカ・ヴィッティ)は婚約者リカルド(フランシスコ・ラバル)と重苦しい話しあいの一夜をあかしたすえ、彼との婚約を解消した。あとを追うリカルドをふりきって、彼女は一人になる。ブルジョアの彼との間にある埋めがたい距離をそのままに、結婚することは耐えられないことだ。
彼女は証券取引所にいる母を訪ねる。株価の数字の上げ下げを追う狂騒的な取引所の雑踏の中で相場を張っている素人投資家の母は、彼女の話を聞こうともしない。
女友達のアニタとマルタの三人で、深夜のアパートでふざけちらしてみても、空しさは消えない。アニタの夫のパイロットが操縦する飛行機にのってみても、倦怠の日々は少しも姿をかえはしない。
ふたたび訪ずれた取引所では、株の大暴落がはじまっていた。彼女の母は投資資産のすべてを失ったすえ、大きな借金をせおいこんだ。巨額の金を暴落で一瞬に失った肥った中年男は、カフェのテラスで茫然と紙に草花の絵を描いていた。
取引所には株式仲買所につとめる美貌の青年ピエロ(アラン・ドロン)がいて、前から彼女と時々言葉をかわしていた。この日を境に、二人は接近した。
二人は町を歩く。公園、ビルの谷間、建てかけの建築物のある道、市場。そして二人は、ピエロのオフィスで結ばれる。抱きあって、話をかわし、笑い、やがて朝がきて、二人は別れる。「あした会おう、あさっても、次の日も……」。二人はキスして、別れていく。やがて電話のベルがオフィスに鳴りひびいて、新しい一日がはじまろうとしている。二人が散歩した公園もビルの街並も、建てかけの建築物のある道も、今日も少しも変らずにそこにある。しかし、新しくはじまった今日のどこが、旧いすぎさった昨日と違うのか。ヴィットリアは昨日と同じように、今日の中にまた歩みはじめる。

この記事へのコメント

はる
2015年07月22日 00:46
初めてこの作品を見た時、私にとって衝撃的な作品でした。
そして、ずっと疑問でした。
どうしてこの作品が、愛の不毛を描いた作品なのか?
本当にそれを描きたかったのか?
当時、監督はどんなコメントをしておられたのでしょうか。
私は、他の作品を見ていないのでわからないだけかもしれませんが・・・
こちらを拝見して、ほぼ同じ感想だったのでコメントしたくなり書かせていただきました。


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