長崎の鐘_1 (1950) 日本

[1110]原爆が描かれた初の日本映画、藤山一郎の名唱を聞け

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原爆が描かれた初の日本映画である。
原作は長崎医科大学(現・長崎大学医学部)の
医学博士・永井隆の随筆「長崎の鐘」。

脚本は新藤兼人、光畑硯郎、橋田壽賀子の三人。
監督は大庭秀雄。出演は若原雅夫、月丘夢路、津島恵子、
滝沢修、薄田研二ほか。

映画化に至るまでちょっとした経緯があった。
永井隆の随筆は
1946年(昭和21年)8月には書き上げられていた。
が、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲で
すぐには出版の許可が下りず、

GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集
「マニラの悲劇」との合本とすることを条件に、
1949年(昭和24年)1月、日比谷出版社から出版された。

酷い事をしたのはアメリカだけじゃない、
日本だってこんな大虐殺をやったんだとGHQは免罪符にしよう
とした訳だよね。

同書は紙不足の当時としては空前のベストセラーとなり、
同年7月、サトウハチロー作詞・古関裕而作曲、歌・藤山一郎で
同書をモチーフにした歌謡曲「長崎の鐘」が発売され、
これも空前の大ヒット。
で、翌1950年(昭和25年)に松竹が映画化したのである。

但し、やはりGHQによる検閲のため、
原爆及び被爆状況等を正面から描く事はできず、
永井隆の生涯を描いた伝記作品という形で製作されたのだ。



♪こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

♪召されて妻は 天国へ
別れて一人 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き 我が涙
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

藤山一郎の歌うその「長崎の鐘」。
子供の頃、私らもよく歌ってたなあ。
藤山一郎の声はいま聴いても本当に痺れる(^^♪

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ちなみに私が初めて観たのは学校の講堂。
小学生時代、もちろん巡回映画。
本を読んだのは映画を観た後、中学生になってからだった。

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永井隆、1908年(明治41)2月3日-1951年(昭和26)5月1日。
生まれは鳥取県松江市で、父親は医師。
生後すぐに現・雲南市に引っ越し、松江高校に入学、
そして1928年(昭和3)に長崎医科大学(現・長崎大学医学部)へ。
4年後の32年(昭和7)に卒業するのだが、映画はそこから始まる。

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1932年(昭和7年)5月、
大学卒業式の2日前、永井(若原雅夫)はクラス会に出席した。
が、雨に濡れて下宿先へ帰宅したため急性中耳炎を患い、入院。
命を落とすか障害者になるかの重症だった。

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2ケ月後、ようやく健康を取り戻したものの、右耳が不自由に。
当初内科を希望していたのだが、この耳では無理だと
担当医師の勧めで物理的療法科(レントゲン科)の道へ進み、

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朝倉教授(滝沢修)の下で放射線物理療法の研究に
取り組み始めた。
画像が超悪いのは私のせいではない。YouTubeのせいだ。
YouTubeさん、ありがとね(^^♪

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当時、放射線医学は医学界では軽んじられ、
聴診器に頼る古くからの医師たちに迫害を受けていたが、
研究を重ねるうちに将来を左右するほどの分野だとわかり、
研究に打ち込んだ。

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そんな永井を支える二人の女性がいた。

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一人は看護婦の山田幸子である。
彼女は内科担当を希望していたが、
永井が生涯を放射線医学に捧げる決意だと知ると、
永井の下に残ることにした。
美しき幸子を演じているのは我等が津島恵子さんだよ(^^♪

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そしてもう一人は永井の下宿先の娘で、
小学校の先生をしている森山みどりである。
(後に永井の妻となる女性で、実名は「緑」である)

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演じているのはこれまた美しき我等が月丘夢路さん(^^♪
この頃の女優さんの美しさには
今時の女優さんの美しさと違い芯がある。品性がある。
何故にその芯と品性は失われてしまったのかだと?
俺に聞くな!(笑)

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その森山家は浦上天主堂近くにあった。
父親孫左衛門は牛の売買で暮らしを営んでいたが、
先祖は実は隠れキリシタンで信者たちを指導していた。
現在はカトリックで、一人娘であるみどりの信仰も厚く、
洗礼名をマリアと言った。
あ、父親孫左衛門(中央)を演じているのは薄田研二。懐かしい(^^♪

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永井は美しいみどりさんに心惹かれたこともあり、
教会を覗くこともあった(^^♪

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浦上天主堂で信者を前に説教をしているのは
鈴木神父…、これまた懐かしき青山杉作(^^♪

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浦上天主堂は1914年(大正3)に完成したが、
1945年(昭和20)の原爆投下により原型を留めぬほどに崩壊した。
ちなみに浦上天主堂の保護者は「無原罪の聖母(マリア)」である。
またよく知られる江戸期のキリシタン弾圧を「浦上崩れ」、
明治期の弾圧を「浦上四番崩れ」と言う。

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1959年(昭和34) に元の場所にカトリック浦上教会が建設される。
実は私、若い時分に「さんたまりあ四番崩れ」と題し、
上演したことがあった。珍しく半分ミュージカルだったが、
それを書いたのも遠くにこの映画の影響があった訳よ(^^♪
観てるうちにそんなことまで思いだされたので
忘れぬうちにと書いといた次第(笑)。

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1933年(昭和8)1月、満州事変に伴い、永井に召集令状が来た。
朝倉教授と看護婦幸子は無事を祈り、

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みどりは、セーターと
「公教要理」(教えがわかりやすく書かれたもの)を手渡した。

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2月1日、永井は幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、
短期軍医として満州事変に従軍。

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戦争と負傷兵の手当てを前に永井は、
人間には絶望しかないのかと悩み、公教要理を読み、
キリストへの理解を深めていった。

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1年後の2月、帰還して大学の研究室助手に復帰すると、

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浦上天主堂に鈴木神父を訪ね、やがて入信する。
1934年(昭和9)6月のことで洗礼名をパウロとした。

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洗礼後、みどりの仲介で、カトリックの信徒組織
「聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会 (ヴィンセンシオ会)」に入会し、
無料診断・無料奉仕などの活動を始めた。

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永井に恋心を寄せていた看護婦さち子は
永井の心がみどりにあることを知ると、
従軍看護婦を志願し長崎を去ることを決心。

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それを知った永井は君の行く処ではないと止めるのだったが。
この映画はGHQの検閲の目を逃れるため
ラブロマンスの意匠を凝らしているのだが、
恋に破れたわが津島恵子に私は甚く同情するのであった(^^♪

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同年8月、永井はみどりと天主堂で結婚式を挙げた。

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そして1935年(昭和10)、長崎医科大学の助教授に就任。
同年に長男・誠が、その2年後には長女・茅乃が誕生し、
永井は幸福に包まれた。

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長崎は夜景がひじょうに美しい、私の好きな街(^^♪
これはたぶんオランダ坂。

あ、ちなみにウィキペディアによると永井は、
1937年(昭和12)、長崎医科大学の講師に就任、
1940年(昭和15)、長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に
就任したとの事だ。

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永井は治療に、研究にと体力の限りを尽くした。
そうしてやがて体調の不良に襲われ、
後輩医師に自分を診断させた。

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永井には自分の病がわかっていた。
当時の放射線医師には宿命とも言える白血病である。
内科医師の診断も出た。慢性骨髄白血病、余命3年。
彼は良い機会だと言い、学生たちに自分の体を診せた。

これもウィキペディアによれば、
発病は1940年 (昭和15)と推定され、
被曝による白血病、余命3年と診断されたのは
1945年(昭和20)6月との事である。

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永井は妻みどりに隠さず率直に自分の病を告げた。
そうして言葉を失うみどりにこう言った。
「放射線医師の勲章だと思っている。3年と言えばまだ長い。
今後も大学に残って研究を纏めたいと思う。
君には苦労ばかり懸けたが、すまない、許してくれ」
みどりは泣いた。

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空襲が全土を覆い始めた。
永井とみどりは二人の子供たちを疎開させることにした。

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その前日、二人は子供たちを海辺へ連れていき、一緒に遊ぶ。

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ここは私の記憶にかなり鮮明に残っていたシーン。

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父・永井が明るく笑いながら縄跳びの縄を回してやる。
何も知らない、何もわからない子供たちは
ひどく嬉しげに、楽しげにキャッキャッはしゃぎながら縄を飛ぶ。

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その光景を母・みどりも微笑みながら眺めている。

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永井とみどりの心は絶望と悲しみで一杯なはずなのに、
その気配を子供たちには露も見せない。
まさに心を倒立させて表現している訳だが、観てる側は
それが分かるだけに一層激しい悲しみに襲われる訳だよね。
さすが大庭秀雄監督、いま観ても見事だなあと感動しちゃう(^^♪


※「長崎の鐘_1」
※「長崎の鐘_2」


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■94分 日本 ドラマ/伝記
監督: 大庭秀雄
製作: 小倉武志
原作: 永井隆
脚本: 新藤兼人 光畑硯郎 橋田壽賀子
撮影: 生方敏夫
音楽: 古関裕而
出演
永井隆 若原雅夫
みどり 月丘夢路
山田幸子 津島恵子
朝倉教授 滝沢修(民芸)
山下 三井弘次
孫左衛門 薄田研二(新協)
鈴木神父 青山杉作(俳優座)
吉崎医学士 清水一郎
爺や 高堂国典
五島教授 奈良真養
谷村助手 土紀就一
永井誠 村瀬禅
高松栄子
小藤田正一
川村禾門

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