長崎の鐘_2 (1950) 日本

[1110]原爆が描かれた初の日本映画、藤山一郎の名唱を聞け

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そして1945年8月9日、木曜日。

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みどりは「今度の日曜日、子供たちの処へ参りましょう」と言い、
夫・永井をいつものように玄関先で見送った。

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それが永遠の別れになるとも思わずに。

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その頃、爺やの家へ疎開した子供たちは、
日曜日にやってくる父と母へのお土産にと川縁で、
蜜柑(?)をもいでいた。

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兄・誠がもいだ蜜柑を妹・茅乃に放った瞬間、
凄まじい爆発音に包まれ、二人は息が止まった。

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二人は遠くにキノコ雲を見た。
アメリカ軍の記録によると投下時間は午前10時58分である。

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(「ウィキペディア」より転載)

永井はこの時、爆心地から700メートルの距離にある
長崎医大の診察室にて被爆。右側頭動脈切断という重傷を
負ったが、布を頭に巻き救護活動にあたった。
そして翌日、米軍が上空から撒いたビラで、投下された爆弾が
原子爆弾である事を知った。

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3日目、8月11日 。
学長代理として指揮をとっていた教授の許可を得、帰宅した。
自宅は廃墟と化していた。
台所跡から骨片だけの状態になっていた妻・みどりの遺骸を発見、
骨片を拾って埋葬した。

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それから子供たちのいる疎開先・三山(市内西浦上)の
爺やの家へ駆けつけ、二人を抱きしめた。

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妻・みどりがいつも首にしていた掌のロザリオを見せ、
永井は二人に母が天国へ行った事を伝えた。
ロザリオは永井が自宅跡から拾い上げたものだった。
ちなみに永井はこの後、三山に救護本部を設置して
被爆者の救護に当っている。

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廃墟と化した浦上に立ち、永井は信者たちに呼びかけた。
浦上の信者は幾たびもの「浦上崩れ」を乗り越えてきました。
私たちも私たちの手で天主堂を再建しましょう、と。
信者たちは絶望の淵から立ち上り、天主堂を再建し始めた。

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映画では描かれていないが、
永井は9月10日頃 、昏睡状態に陥るのだが、その直前、
「光りつつ 秋空高く 消えにけり」と辞世の句を詠んでいる。

9月20日、傷口からの出血が止まらず再び昏睡状態に。
意識回復後、マリア会の田川神父に告解して終油の秘蹟を受けたところ、
出血が奇蹟的に止まったと言う。
本人によると、本河内のルルドの水を飲んだところ、
以前診察したことのある「マキシミリアノ・コルベ神父の取次ぎを願え」
という声が聞こえたような気がし、それに従ったという事だ。

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1946年(昭和21)1月28日、長崎医科大学教授に就任、
そして同年7月、長崎駅近くで倒れ、後は病床に伏した。

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永井が伏したのはこの「如己堂(にょこどう)」で、
療養のためにと浦上の人たちやカトリック教会が建ててくれた庵である。
「如己堂」は、「己の如く人を愛せよ」という主の言葉から
永井本人が名付けたものだ。

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庵に、復員してきた長年の友人・山下(三井弘次)が見舞いに来た。
鈴木神父も現れ、永井に告げた。

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御堂が完成し、明日からまた鐘が鳴ると。

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永井はその庵で子らと共に寝、共に暮らした。





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妻・みどりの事が胸を去る事はなかった。
病床で筆を取り、永井は随筆「長崎の鐘」を綴った。

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「この子を残して やがて私はこの世を去らねばならぬのか
私の体がこの世から消えた日 この子は母の墓から帰ってきて
この部屋の何処に座り 誰に向かって何を訴えるであろうか」

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妹・茅乃が小学校に入学する日が来た。
永井は兄・誠に手を引かせ、入学式に向かわせた。

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その時偶然、
かつて永井の下で看護婦をしていた幸子が見舞いに訪れ、
学校へ向かう兄妹を見送った。

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幸子はまだ幼い子らを不憫に思った。

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彼女は永井に申し出た。
新聞で先生の事を知りました。私をここに置いて
あの子たちと先生の面倒を見させていただないでしょうかと。
彼女、あれ以後ずっと一人で生きてきたのだった。

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永井は幸子の気持ちを嬉しく思いながらも言った。
「僕はあの子たちに遺産と呼べる物は何一つ残してやれなかった。
ただ一つ残せるのは父と母の思い出だけなんだ。
一人の父と、1人の母という純粋な親の思い出だけを、
ただそれだけを思い出としてあの子たちは生きて行けたらと思っている。
病人の我が儘を許してくれ給え」と。
幸子は永井と二人の子の幸せを祈り、泣いた。

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父は子らにただ一つの言葉を残した。
「平凡でいい。心の美しい人間になっておくれ」
御堂の鐘が鳴った。
子らは父と共に祈りを捧げた。

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1949年(昭和24)、永井は浦上公民館で
日本に運ばれていたフランシスコ・ザビエルの聖腕に接吻し、
ローマ教皇特使として訪れたギルロイ枢機卿の見舞を受けた。

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御堂の鐘が「ナガサキに」鳴り響いた。

1951年(昭和26)5月1日、
永井は死ぬ前に医学生に白血病の最終段階を見せたい、
病気に対する知識を深めて欲しいと希望し、
長崎大学付属病院へ緊急入院した。

午後9時40分、目まいを訴え、一時意識不明に陥る。
午後9時50分、意識を取り戻すと
「イエズス、マリア、ヨゼフ、わが魂をみ手に任せ奉る」と祈り、
駆けつけた息子・誠一(映画では「誠」)から十字架を受け取ると
「祈ってください」と声を上げ、そのまま息を引き取った。

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原爆投下15分後に、香焼島から撮影されたキノコ雲。
この原爆投下により長崎市の人口24万人(推定)のうち
約7万4千人が死没、建物の約36%が全焼または全半壊した。

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原爆投下前の爆心地付近。(長崎市浦上地区)

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投下後の同一地点、目標が完全に破壊されている。

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荒野と化した浦上天主堂付近。

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破壊された浦上天主堂。(1946年1月7日撮影)

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大村海軍病院にて、全身に大火傷を負った14歳の少女。
(1945年8月10日撮影)

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逃げる被爆者たち。(山端庸介撮影)

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昭和20年11月23日、浦上のカトリック信徒約300名が、
空虚と化した浦上天主堂わきの広場で
浦上信徒の原爆犠牲者合同慰霊祭を挙行した。
これより原爆犠牲者慰霊が始まる。

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私が中学の修学旅行で長崎を訪れた時の写真。
場所はたぶん浦上天主堂付近である。

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原爆病院を訪れ、中央の被爆者斎藤さんとの文通が始まった。
写真はその斎藤さんを宮崎へ招いた時のもの。


繰り返してきたように、
この映画は永井隆の手記「長崎の鐘」に依っている。
GHQへの配慮が挿入されているシーンもあるが、
手記に対して相当に忠実である。

特に永井が白血病に冒されている事が分かって以降、
大庭監督はただひたすら事実のみを筆記していくといった感じで、
その筆致には目を瞠るものがある。

俳優も本当に素晴らしい。
特に子役二人に私は拍手を贈りたい。
韓国の素晴らしき子役たちを凌ぐと言っても過言ではない(^^♪

YouTubeの映像はごらんのようにけして良くないが、
貴重な、とても優れた映画なので一度は観ておこうではないか(^^♪

ちなみに木下恵介も永井隆の「この子を残して」を映画化し、
1983年に公開された。

[註]
映画の写真以外の写真と伝記詳細は
すべてウィキペディアに依っている。記して感謝(^^♪


※「長崎の鐘_1」
※「長崎の鐘_2」


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■94分 日本 ドラマ/伝記
監督: 大庭秀雄
製作: 小倉武志
原作: 永井隆
脚本: 新藤兼人 光畑硯郎 橋田壽賀子
撮影: 生方敏夫
音楽: 古関裕而
出演
永井隆 若原雅夫
みどり 月丘夢路
山田幸子 津島恵子
朝倉教授 滝沢修(民芸)
山下 三井弘次
孫左衛門 薄田研二(新協)
鈴木神父 青山杉作(俳優座)
吉崎医学士 清水一郎
爺や 高堂国典
五島教授 奈良真養
谷村助手 土紀就一
永井誠 村瀬禅
高松栄子
小藤田正一
川村禾門

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